2001年12月29日土曜日

2001年12月29日(月)

大阪で地元の友達と忘年会。家族で来る友達が多く総勢40人の参加になった。
同年代の友達をみていると、以前よりも仕事にやりがいを感じている者が増えい るようだ。働き盛りの時期に入ったんだなあと思った。まあこの年になってもフ リーター、あるいは引きこもり、大学への再入学を目指している、という同年代 の友達もいたりして、人生いろいろだ。

2001年12月28日金曜日

2001年12月28日(日)

ヘルツに関する打ち合わせの後、ヘルツのプロデューサーの山崎君、学君、マ ネージャー哲と三宿で飲む。
お疲れさま、来年もよろしくという感じ。ヘルツのアルバムはもうとっくに完成 しているので、あとは早くリリース日が決まればよいのだが。
知らない内に相当に飲んで酔った。深夜の帰り道、素晴しくご機嫌な状態で知り 合いのミューシシャンに電話して長話。酔ってるときの方が普段より面白くて良 いと言われる。

2001年12月25日火曜日

2001年12月25日(火)

18日に続いてブラジルから来日しているパンディエロ奏者マルコス.スザーノ とドラマー沼澤尚さんを中心としたセッションを南青山マンダラまで観にいく。 この夜の演奏もとても刺激になった。
最初にゲストで登場したのが若手女性デュオ、アナム&マキ。2人のことはデ ビュー前から知っていて当時から才能を感じていたけれど、久し振りにステージ を観てその成長振りに驚かされた。強者をバックに全く臆するところなく弾けて いる2人はとても頼もしかった。
二人目のゲストは公表されていなかったのだけれどシンガーソングライターの Y.M君が登場。なんか風格が出てきたなあ。ギターがますますうまくなっていて、素晴しいグルーブを出していた。
ライブを観ていたらこのステージに自分がいないことが悔しく思えてきた。
ライブの後、楽屋をたづねてメンバーに挨拶。 マルコスとも話する。
「マイ.ネーム.イズ.リクオ」
「オー!リクオ!」
知り合いのライターである下岡さんがソロとヘルツの音源を前もってマルコスに 渡してくれていたので、彼は僕の名前を覚えてくれていた。その後もあらかじめ 辞書を引いて考えてきた内容を話す。俺のつたない英語がなんとか通じた!CDも 誉めてくれて、次回来日したときはいっしょやろうなどと言ってくれた。人当た りのやわらかいとても良い人だった。
帰り道、いいライブでよかった~という単純に素直な気持ちにはなれなかった。

2001年12月22日土曜日

2001年12月22日(土)

最近、結構新曲を書きためている。
今日つくっている曲には「美しい暮らし」というタイトルをつけるつもり。
これは吉田健一という作家の一文に影響を受けて、つけたタイトル。
その文章はこう。

戦争に反対する唯一の手段は各自の生活を美しくして、それに執着することであ る。

僕は吉田健一という作家のことをこの一文以外に何も知らない。ある雑誌にこの 一文のみが掲載されているのを見つけて以来時々ふと、この言葉を思い出すよう になった。
9/11のテロ以降、世界は変わったと思う。僕の楽曲もその影響を受けてい る。
僕はテロにもアメリカの空爆にも反対である。今、アメリカは間違った選択をし ていると思う。
9/11のテロ、そしてアフガン空爆以降、複数の知り合いから戦争やテロのある状況の前で音楽は無力ではないかということを言われた。僕はずっとその意見 に納得できずにいる。そういう状況にこそ必要とされるのが音楽ではないのか?そんな問いを今も繰り返している。

2001年12月21日金曜日

2001年12月21日(金) 新潟・ジョイア・ミーア

今年、締めのライブ。
昨夜からちょっとした出来事で落ちこんでいて、新潟に到着しても、なかなか立 ち直れずにいたところ、携帯が鳴ってマネージャーテツからメールが届く。「今年最後のライブ、モチベーションを上げて下さい。」との内容。自分は、こうい うちょっとしたことでころっと気分が変わってしまうところがある。しばらくし たら「よっしゃー!」という気分になって、いい感じでこの日のライブを乗り切 る。

今年も90本程のライブをやって、全国いろんな場所で歌わせてもらうことが出 来た。
前の事務所を離れて、こういうツアー暮しを始めたころは正直、毎日歌うことや、旅することが辛く感じる時もあったけれど、最近は以前に比べれば、その時々の状況を受け入れてリラックスして楽しる術をつかんできた。

2001年12月18日火曜日

2001年12月18日(火)

南青山マンダラでブラジルのパンディエロ奏者マルコス・スザーノと各方面 で大 活躍のドラマー、沼澤尚さんを中心としたセッションを観にいった。 いゃ~良かった。サウンドは’90年代以降のダンスミュージックを経過した フュージョン、あるいはクロスオーバーミュージックといった感じ。ピアノの塩 谷哲さんとオルガン&ローズの森俊之さんも素晴しかった。
この日のライブを観て自分の立ち位置のようなものを考えさせられた。いい刺激 になった。

2001年12月16日日曜日

2001年12月16日 秩父・ホンキートンク

やあ、この日はいいライブができた。楽しみ方を心得ているお客さんで本当にや りやすかった。ホンキートンク常連のお客さんも多かったようで、多分、オー ナーの鈴木さんが時間をかけてお客さんを育てていかれたのだろう。 秩父には今度はプライベートも兼ねて来てみたい。

2001年12月15日土曜日

2001年12月15日(土)「社会福祉法人みずき会10周年記念式典記念コンサート」

みずき会は重度の知的障害者を受け入れる施設で、そこの代表である樋口さんが 僕のファンだった縁で、この式典に招いていただいた。
800人を収容するホールには施設で暮らす障害者の人達、その親族の皆さん、 スタッフの皆さん、町の有力者の方々と、またいつもとは違うさまざまな客層の人達が集まっていた。この日のライブは、なかなかうまくその場の空気をつかめ なかった。まだまだ修行不足だな。
打ち上げではみずき会のスタッフの皆さんから施設を立ち上げることにしたきっ かけ、立ち上げるまで、立ち上げてからの苦労話などを色々ととうかがう。はた から聞いていると大変な話を、あっけからんと明るく話すみずき会の皆さんの表情と雰囲気がとてもよくて、帰りの車中マネージャーテツと「今日は来てよかっ たなあ」としみじみ話す。

2001年12月12日水曜日

2001年12月12日(水) 浜松・ポルカドット・スリム

 ツアー最終日。前日も相当に深酒したのだが、体調はグッド。
今回のツアーは、ライブの内容も動員も、この日までずっといい感じ。
けれど最終日でこけた。 開演前、店内を覗くと、空席だらけでなんとも寂しい入り。しかも僕をブッキン グしたお店のオーナーが本番前になっても顔をださない。「呼んでおいてそれは ないやろう。」などとわだかまった気持ちで本番を迎える。
まあ、ステージに上がってしまえばそういう気持ちも大抵、切り替わる。 めずらしくライブ中にアルコールを補給しながら、いつも以上に腰を据えてじっくり歌う。まったりとした夜になった。 こういう夜は自分の歌ばかり聴かせるのではなく、集まってくれたお客さんの話 なんぞも聞いてみたくなる。名前も知らず、このまま別れてしまうのが少し残念 なような、そんな気分だった。 長いステージになった。
ライブ中は心地良かったのにステージが終われば寂しい気分。浜松には泊まらず 夜行で東京に帰る。

2001年12月11日火曜日

2001年12月11日(火) 豊橋・ハウス・オブ・クレイジー

 今回の豊橋でのライブにはFM豊橋さんが後援について宣伝に協力してくれた。こ のFMには小石さんという、熱心にサポートしてくれる女性がいるのだ。ここ数 年、各地で目先の損得を超えて僕をサポートしてくれる人達が増えてきていて、本当にありがたい。
この日のお客さんの入りは、今までここのお店でやらせてもらったなかでは一番 だった。しかも食いつきが素早く、とても乗せ上手のお客さんで、ライブは非常 に盛り上がった。 今回のツアーはかなりいい調子。

2001年12月10日月曜日

2001年12月10日(月)

また大阪でツアー中のオフを過ごす。
地元の友達一家と本町で食事。その後、旧友と二人、阿波座で飲む。心地よい時 間。沖縄出身のマスターとの会話が弾み、思わぬ深酒になってしまった。マスターがかけてくれた大工哲弘さんの「生活の柄」がとても良かった。

2001年12月9日日曜日

2001年12月9日(日) 広島・オーティス

 体調、良好。 今日もいいライブが出来た。昨日つかんだ歌の感触は今日も残っていた。来る度 にお客さんの数が増えている。嬉しい。

2001年12月8日土曜日

2001年12月8日(土) 和歌山・オールドタイム

 オールドタイムはJR和歌山駅から歩いて10分程のネオン街の中にあるので、 夕方以降、オールドタイムに向かう多くの人はポン引きの誘いを受けるこにな る。僕がこのお店に年に1度程の割合で通うようになってもう10年くらい経つ と思うのだけれど、その間ずっと僕に声を掛け続けているチョビ髭の親父がい る。きっと向こうは僕の存在など全く意識していないだろうけれど、僕はその親 父に声を掛けられることをちょっとした楽しみにしている。この日も僕は無事、ちょび髭親父と再会を果 たすことができた。元気そうでなにより。この日は入り時間に遅れてしまったので、リハーサルをさっさとすまして、ライブ直前まで近くの喫茶店で過ごす。リ ハーサルの後は大抵、茶店でぼんやりくつろぎながらその日のステージの流れをなんとなく頭に想い描いたりするのだけれど、この日はツアーの疲れが出て、頭 が働かなかった。まあ、一人のステージだから本番で決めればよいと開き直って、本番直前まで窓際の席でぼんやりと外の風景をながめながらだらだらと過ご す。
店に戻った頃にはもうNUIT LOVEさんのピアノ弾き語りステージが始まってい た。横須賀からツアーで和歌山にやってきた彼女は、この日の僕のライブを観るために、わざわざ滞在期間をのばしてくれたそうで、マスターの松本さんの提案 もあって急遽、オープニングアクトをつとめてもらうことになったのだ。ラグタ イムやジャズの影響を受けたピアノも良かったけれど、何よりも歌がよかった。 抑え気味の唱法なのだけれど、その中にとても濃密な想いが込められているのが 伝わってきた。
この日はステージに上がった瞬間からお客さんの期待感を含んだいいオーラが伝 わってきて、自分の中でスッとスィッチが切り替わった。疲れなんてどこかえ消 えてしまった。それからエンディングまで、ずっと流れに身をまかすイメージを保ちながら演奏することができた気がする。お客さんも自分の掌にうまく乗って くれた。
歌唱、演奏、パフォーマンス、どれをとっても最近のライブのなかではベストのステージができた。特に歌唱に関してはこの日に何か一つのきっかけをつかんだ ような気がする。その感じをうまく言葉に現わせないのだけれど、歌いながら 「これだ」という実感があったのだ。とにかく、この日のステージで歌い手とし ての欲が深まった。 打ち上げの小料理屋で食べたお惣菜がとても美味しかった。ツアー中にこういう 食事ができるとほっとする。この店のママのミキちゃんが分けてくれたちいさな ミカンもとても甘くて美味しかった。

2001年12月7日金曜日

2001年12月7日(金)

 ツアー中のオフを大阪で過ごす。
 夜はサンケイホールで行われた川村結花さんのコンサートを観る。このツアー にドラムで学君が参加しているので招待してもらった。
 ステージに登場するやいなや川村さんがレオン・ラッセルを想わせるようなアタッキーでファンキーなピアノを披露したのは意外で、新鮮だった。途中、ゲス トで小田和正さんが登場。二人で「夜空ノムコウ」をデュエット。この名曲が語 られるとき、作詞者のスガシカオ氏に比べると、作曲者である川村さんのことが 取り上げられる機会が少ない気がする。詞に負けない、とてもいいメロディー で、両者は本当に幸せな出会いをしていると思う。

2001年12月6日木曜日

「リクオのハプニングデイズ」at 大阪バナナホール

なかなか寝付けず睡眠不足。  午後2時にバナナホールに入る。リハーサル前にメンバー&マネージャー4人 で楽屋に集合して今日のライブに向けて、打ち合わせ。事前に決めていたライブ メニューをこの日、少し変更することにする。ライブ前にこういうミーティング をするのはヘルツとしてはちょっと異例。
 リハーサルはトラブルなくスムーズに進んでいった。3組で行うセッションは 当日打ち合わせ。ロッキンタイムの今野君は事前に決めていた曲を変更してボ・ ディドリーの「クラッキン・アップ」をセッション曲に持ってきた。ゆったりと した南国のハッピーなムードを感じさせる、いかにも彼らしい選曲。僕はオルガ ンを弾くことにする。
 ロックステディーのレゲエスタイルを得意とするロッキンタイムの演奏を聴い ていると わずらわしいことを忘れて幸せになれる。この日はやる事が多くて、ちとテンパ リ気味だったのだが、リハーサルで彼等の演奏を聴いて、気持ちがほぐれた。
 7時半に開演。僕の紹介でロッキンタイムが登場。彼等の30分ステージの 後、僕が登場してロッキンタイムのオリジナル「どこかに消えた」にピアニカで 参加。彼等のいいヴァイブレーションに触れてすっと気持ちが自由になる。いい パフォーマンスが出来た。出足は上々。
 ロッキンタイムがはけた後にヘルツのメンバーを紹介。3人での大阪ライブは 本当に久し振り。前半は熱くなりすぎず、少し抑え気味の演奏。1曲、1曲を聴 かせるというよりも30分のライブを一つの流れで聴かせることをいつも以上に 意識した。この日の演奏は力まず、けれど淡泊にならず、いい流れに乗ることが できた。ライブ後半でうまくピークがつくれて、自分の気持ちもそれに自然につ いてゆけた。自分の中で発見の多いライブだった。まだまだ高みに行けそう。メ ンバー3人にとっても来年につながる、一つのきっかけになるステージだったと 思う。
 ヘルツタイム最後のナンバー「ムーンライトサンバ」で玲葉奈をステージに紹 介、サビの部分をコーラスしてもらう。いい盛り上がりだ。その後いったん、寺 さんと学君にはけてもらって玲葉奈と二人でセッション。二人の会話を客席に聴 かせている感じ。玲葉奈は音に対する反応が早くて鋭い。打てばどんどん響く感 じ。とても楽しく、ちょっと色っぽいコミュニケーションができた。
 3曲を二人でセッションした後、寺さんと学君を呼び戻してヘルツ&玲葉奈の セッションタイム。ヘルツサウンドを全身に浴びて玲葉奈はどんどん自由に弾け てゆく。音楽とたわむれる喜びを歌で目一杯表現する彼女の姿に、僕だけじゃな く寺さんも学君も多いに刺激を受けたと思う。
 アンコールの3組そろってのセッションもハッピーな空気に満ちていた。いい イヴェントができた。
 打ち上げは近くの鉄板お好み焼き屋で。僕は明け方までコース。ロッキンタイムの今野君が最後まで付き合ってくれる。語った、語った。最後は酔って足腰の立たな くなったX氏(名前は伏せておきましょう)に肩を貸して宿泊先に戻る。

2001年12月5日水曜日

「リクオのハプニングデイズ」at 大阪バナナホール

 20周年を迎えたバナナホールと僕の付き合いは長い。始めてここのステージ に立ったのが大学1回生だった16年前。まだ本格的に歌い始める前で僕はバン ドのキーボーディストだった。CDデビューを記念したライブをバナナで行ったの が11年前。そのときのチケット代は当日2千円。11月にリリースされた初の ライブアルバムの音源のほとんどもここで収録されている。こうやってステージ から20周年を祝うことができるのは嬉しい。
 初共演のはじめにきよしはギターのはじめ君とピアニカのきよし君の二人から なるアコースティックデュオ。ゴンチチを少し素朴にしたような、どこかとぼけ ていて、懐かしく、暖かいサウンドが魅力。二人のキャラもいい。曲間の両者の 掛け合いと間の取り方が絶妙。またいい出会いができた。   バンバンバザールは南君と安藤君が抜けて、ベースに泥水の黒川君が参加した 後、初の大阪ライブ。サウンドはアコースティックからエレキ色が強くなり、骨 太になり重みが出てきた。フィッシュのようなインストとギターソロをフィー チャーしたナンバーもあったり、以前にはなかったサウンドアプローチが感じら れ、バンドは大きな転換期にある様子。
 バンバンとのセッションコーナーでは彼等のアレンジで僕と友部正人さんとの 共作「カルヴァドスのりんご」を共演、とても印象深いセッションになった。僕 が弾き語りで演るときの、ジャズ的なテンションの入ったコードワークで、クー ルに同じフレーズ、リズムを繰り返すミニマルなサウンドアプローチとは異な り、この日のバンバンのアレンジはニール.ヤング&クレイジーホースを想わせ るフォークロック調のハードでストレートなものだった。前者のイメージが青白 い炎なら後者のイメージは真っ赤な炎。なんだか昔の血が蘇ってくるような感じ で燃えた。
 バンバンは来年、一台の器材車にスタッフとメンバーが乗り込んで200本を 超すツアーに出る予定だそう。ツアー中に季節が変わるので、旅の途中で服装の 衣替えをするのだとドラムの武田君が楽しそうに語ってくれた。彼等の旅の話は 尽きない。そんな話を披露する時のメンバー達は本当に生き生きとしている。同 じ楽屋になって一番楽しいバンドである。200本のツアーを終えた後、彼らは また成長した姿を僕らに魅せてくれるだろう。現在、これほどにバンドらしいバ ンドを僕は他に知らない。長く続いてほしい。
 バナナホールでの打ち上げを終えた後、マネージャーテツとエンジニアスタッ フの恭一さんと3人で飲みに行く。軽く飲んで帰るつもりが、明日のステージに 向けて熱く語り合う長いミーティングになってしまった。

2001年12月4日火曜日

2001年12月4日(火)

 9日間、6ヵ所ツアーの始まり。
この日はマネージャーテツと2人、器材がたっぷり積み込まれた彼の自家用車で 東京を午前中に出発、大阪に向かう。快晴でほとんど渋滞もなく、車中での会話 も弾み、なかなか快適な気分で夕方には大阪に到着、明日のライブ会場であるバ ナナホールへ向かう。
 バナナホールでは20周年を記念したライブイヴェントがシリーズで行われて いる最中で、明日、明後日は「リクオのハプニングデイズ」という企画で僕が 20周年に花を添えさせてもらうのだ。
 この日の出演はビギン、木村充揮、桑名晴子、玲葉奈。世代を超えて歌心を大 切にするアーティストが集まった。笑いあり、泣かせありのアットホームでベタ な会場の雰囲気は大阪ならでは。愛とレスペクトにあふれたいいイヴェントだっ た。特に印象に残ったのは木村さんの芸人としての懐の深さと、晴子ちゃんの歌 い手としての圧倒的な存在感。積み重ねられたキャリアの凄味を感じた。そして 二人の素晴しさは確実にビギンと玲葉奈にも受け継がれてゆく、そう確信させて くれるイヴェントだった。

2001年7月13日金曜日

2001年7月13日(金)

東名阪ツアー最終日、大阪バナナホール。
「雨上がり」効果で客席は大入り。地元ということもあり客席には知った顔がチラホラ。 この日のライブを観に来てくれた大学の軽音時代のバンド仲間、先輩Mさんとは10数年振りの再会だった。たまたまホームページを見つけて今日のライブを 知ったとのこと。 とても懐かしく嬉しかった。学生時代にMさん達といっしょにやっていたバンド は今の自分の音楽生活の原点になった。当時の音楽仲間がこの日は数人観に来てくれて、楽屋を尋ねてくれた。
オープニングアクトの「のまど」と「グランドカラーストーン」がいい感じで客 席を温めてくれたせいもあって、演奏前から客席は出来上がってる状態。最高の雰囲気でライブは進んでいった。
この日のライブも東京に続いてハードディスクに録音された。いい記録が残せそうだ。
学君とトキエさんのグルーヴはよくなる一方で、この日で終わってしまうのがもったいない感じ。
ツアー最終日ということで、この日の打ち上げは深夜4時頃まで続いた。打ち上 げに参加した僕の地元の知り合い達はトキエさんを紹介しろとうるさかったが、 結局、紹介してやらなかった。
打ち上げの場で、地元の古くから関わってくれているスタッフと、最近参加して くれた東京からのスタッフがいっしょにいい笑顔で飲んでいるのを見て、なん か、いけそうな気がした。

2001年7月12日木曜日

2001年7月12日(木)

東名阪ツアー2日め、名古屋クアトロ。
クアトロブッキング.マネージャーの柿原さんは広島クアトロへの転勤の為、こ の日が名古屋での仕事納め。 本当はもっと早くに広島へ行く予定だったのをこの日のライブの為に延期してくれたそう。こういう話を聴くとますますモチベー ションが上がる。
この日は約9年ぶりに名古屋のイヴェンター、ジェイルハウスの小早川さんにコ ンサート制作をお願いした。
ここ数年、彼はプライヴェートで僕のライブに足を 運び続けてくれていて、いつかまたいっしょにライブをやることを約束していたのだ。
ライブをするにあたって、ほとんどの関係者が名古屋は鬼門だと言うけれど、僕 はここ数年、名古屋でのお客さんの反応にいつも勇気づけられている。この日も席を立って楽しそうに踊っているお客さんに多いに乗せられた。ステージのメン バーも東京に比べると随分リラックスしていて、その場の空気を楽しんでいる感 じだった。
この日は2度めのアンコールで「ケサラ」を歌った。これはマネージャーテツの提案だったのだが、当初僕はあまり乗り気ではなかった。しばらくはこの曲から は離れていたい気分だったのだ。けれど彼があまりにも強く主張するので、こちらが折れて歌うことにした。
歌ってみたら自分でびっくりするぐらい新鮮な気持ちで歌えた。不思議なほどすっと力みなく歌に気持ちが集中していった。
達観したかのように最後まで気持ちが乱れなかった。いや~歌ってよかった。
この日、ライブのオープニングを努めてくれたのは「ギロ」という地元バンド。 これが良かった。音楽的にはジャズやボサノヴァの要素が強く、’70年前後の 歌謡曲の匂いも感じられる。ポート.オブ.ノーツやエゴ.ラッピンに通じる今的 な空気感があって、これからが楽しみなバンドだ。

2001年7月10日火曜日

2001年7月10日(火)

東名阪ツアー初日、渋谷クアトロライブ。
この日はライブ.レコーディングとビデオ撮りがあるせいもあって、スタッフの数がいつものライブよりずっと多く、リハーサル中から会場での人の行き来が多 い。打ち合わせに忙しいスタッフの姿をみていると、ぐっと身が引き締まった。
ライブ直前の楽屋。学君は一人別の楽屋にこもってドクタービートに合わせてブ ラシでウォーミングアップを続けている。 トキエさんと僕は柔軟体操。 出番が後 のマルセさんは鏡の前でメイク中。メンバーは皆少し、緊張している様子。
いよいよ開演。 音が良い。声がよく響く。心地よい緊張感。
ライブ前半はステージにも客席にも少し固さが残った。中盤でほぐれて、後半で 弾けた。
トキエさんとマルセさんの参加は僕にいい刺激を与えてくれた。学君はヘルツと は違ったアプローチで歌を支えてくれている。
普段は予算の関係であまり一つのコンサートで多くのスタッフに参加してもらう ことができないのだけれど、今回はマネージャーテツ、PAミキサーの恭一さん、 レコーディングミキサーの錦織さん、照明の阿部ちゃん、カメラマンのあずみ ちゃん、受付をやってくれたデザイナーの仲野さん、ふみお君等、普段から付き 合いのある仲間とチームを組んでライブをやれたことが嬉しかった。
3年前に7年半お世話になった事務所を離れ、スタッフがいなくなったおかげで、自分自身でやれることと、やれないことを随分と学ばせてもらった。
けれ ど、ここにきてありがたいことに自然に回りに人が集まり始めている。
これから はインディペンデントな精神を保ちながら皆といっしょに面白いことができたら と思う。

2001年7月6日金曜日

2001年7月6日(金)

この日も巣鴨のスタジオでリハーサル。
春頃から巣鴨でリハーサルをやるようになったのだけれど、下町の風情が残るこの町に最近、愛着を感じはじめている。駅からスタジオに行くのに地蔵通 りという商店街を通るのだけれど、ここは巷でおじいちゃんおばあちゃんの原宿と呼ば れるだけあって、いつもお年寄りで賑わっている。道行く人達の平均身長は高齢者が多いためかなり低め(150センチ台)で、そ の中に入ると自分の背が急に伸びたような気分になる。通りには列のできる和菓子屋さん、あんパンが名物のパン屋さん、いい匂いをまき散らす鰻屋さん等、和 風色の強いさまざまな店が軒を並べていて楽しい。
この日は東京のみヴァイオリンで5曲参加してくれるマルセさんがリハーサルに参加。彼女とも今回が初共演。自分の色をしっかり持ったプレイヤーで、綺麗におさめないやんちゃなところが良い。
この日のリハーサルは7時間に及んだ。日程の問題で、余裕のない詰めたリハーサルになってしまったが、そのせいもあってリハ中のメンバーの集中力はとても 高い。トキエさんのプレイは前日よりもぐっと色気を増して、それに刺激をうけた学君 のドラムプレイがあきらかに変化した。

2001年7月5日木曜日

2001年7月5日(木)

東名阪リリースツアーに向けての初リハーサルを巣鴨にあるスタジオでやる。
ベースのトキエさんとは、この日が初音合わせ。彼女の存在を知ったのは最近のことである。CDで聴いたAJICOでのベースプレイとテレビで観たときのたたずま いがとても印象に残っていたので、サポートをお願いしてみたらあっさりOKしてもらえたのだ。
今回のツアーのドラムはお馴染みの学君。ヘルツと同じトリオ編成でのライブで ある。初顔合わせということもありメンバーそれぞれ堅苦しさを残したままリハーサルに入る。
トキエさんも最初は手探りで戸惑い気味の様子。それでも力強さと優しさが同居した、よくうねるベースは素晴しく、一緒にプレイしていて嬉しくなっ てしまった。ドラムの学君との相性もよさそうだ。

2001年7月3日火曜日

2001年7月3日(火)

栗山町にある酒歌楽というパブを借りてライブ。
岩見沢に、この日のライブをブッキングしてくれた早川さんが車で迎えに来てく れる。最近はイヴェンターとしての仕事が忙しく、充実している様子。自分のア イドルであったマリアマルダーのライブを自ら北海道でてかげるそうで、その話 を聞いていると、その喜びとときめきがびんびん伝わってきて、こちらも嬉しく なってくる。
北海道にきてから、気候のせいかハードスケジュールにもかかわらず体調がよ い。北海道にいる間にアトピーもほとんど消えてしまった。 この日の宿泊先である栗山ホテルは自然に囲まれたロケーションもよく、なによ りも温泉つきとゆうのが素晴しかった。リハーサル前から温泉につかって昼寝。すっかりリラックス。
ライブも気持ちよくやらせてもらえた。主催者の小室さんと早川さんから次はヘルツで来てくださいとのこと。

2001年7月2日月曜日

2001年7月2日(月)

旭川アーリータイムスでライブ。
先月、マスターの野澤さんからカセットテープを添えて丁寧な手紙をいただいていた。手紙の内容は、野澤さんの高校時代の先輩(最近、二十数年振りに再会さ れたそう)が作詞作曲された「アーリータイムス」というナンバーをぜひこの日のライブで歌ってほしいとのことであった。
なかなか難しい要請である。取り合えずカセットテープを聴いてみた。アーリータイムスに対する想い入れと現在の自らの心情がとても素直に伝わってくる フォーク調のナンバーであった。特にサビのメロディーと詞が印象に残った。け れど、今の自分が歌うには少し感傷的過ぎる。歌うべきか何度も自問した。北海道ツアーが始まってからもまだ迷っていた。前日の「臆病者」の件といい、この 曲の件といい北海道では自分の立ち位置を考えさせられるような出来事が続い た。結局、自分の中で特例にして歌うことにした。
ライブの後にお会いした先輩は寡黙で想像通り感じのよい方だった。野澤さんと先輩の物語に参加できてよかったと思った。
感傷的な表現はなるべく避けられたらと思う、けれど感傷にひたるのは人間の特権だ。この日、そんなことを思ったような気がする。

2001年7月1日日曜日

2001年7月1日(日)

銀行に電話してキャッシュカードの使用を停止してもらう。既に使われた形跡が あるとのこと。幸い暗証番号が合わず、引き出されることはなかった。けれどもう財布は帰ってこないだろう。
足取り重く芦別に向かう。まだアルコールも残っていてつらい。素晴しい気候と風景が救い。
午後一時、芦別ディランに到着。一年振りにマスターの忠さんと奥さんの美香子 さんに再会。お、なんか元気が出てきた。
今日は午後三時からの開演で、Shyさん&石井明夫君とのジョイントコンサート。Shyさんとは山口の宇部市で会って以来、明夫君とは2年以上前に新潟で 会って以来の再会。こうやって互いに旅の途中で再会するのは嬉しいもんだ。
演奏が始まってもディランのドアは開けっぱなし。僕は二人の演奏に耳を傾けな がら店の回りをぶらついた。 駅前にもかかわらず、通りは寂しげで、店内の盛り上がりが嘘のよう。人気の少 ない路上にたたずんでいると、ぽつんと取り残された気分。近くの商店街に設置されているスピーカーからはモーニング娘のナンバーが流れていて、デイランから聴こえる明夫君の歌声と重なりあう。おそらく僕のみが知るコラポレートであ る。
重なりあった歌声は乾いた風に吹かれて、行くあてなくどこかへ消えていった。ドアから店の中をのぞいてみると、せまい店内で演奏者とお客さんが一体となっ て、盛り上がりはピークをむかえているようだった。
この日は、マスターの忠さんのリクエストで多分3、4年振りに「臆病者」を歌った。僕は全く覚えていないのだが、以前、ディランに歌いに来たときのリ ハーサルで僕がこの曲を歌っていて、本番でやるのかと思っていたらやらなかったそうだ。なんでレパートリーからはずしていた曲をリハーサルで歌ったのか、自分でも不思議だったけれど、本番で歌ってみたらその理由がわかった気がし た。この日、歌っていて最もせつなくなった曲だった。聴いていたお客さんも同 じ気持ちだった気がする。そこにいた多くの人達はこのやっかいな胸のしめつけ られる想いを持て余しながらも、失くしたくはないのだろう。
歌ってよかった。でも、もういいだろう。やっかいものを笑い飛ばしたりしなが ら、もう少しかわいたブルースを歌おうと思う。この日の打ち上げも長かった。酔っ払った僕はカウンターに入って、にわかDJをやらせてもらった。曲に合わ せて踊り狂うみんなを眺めてたらとても愛しい気分になった。

2001年6月30日土曜日

2001年6月30日(土)

北海道ツアーがスタート。
千歳空港から電車で午後2時過ぎに札幌駅に到着。この日の札幌は快晴。昨日まで、梅雨時の東京の気候にうんざりしていたのだ が、こっちは別天地。かわいた風が本当に心地よく、気分は上々。
今日のライブを主催してくれる三角山放送局の杉沢さんが駅に迎えに来てくれ る。杉沢さんが言うには三角山は日本で一番、リクオの歌をオンエアーするコミュ ニティーFMだとのこと。素晴しい。ライブ場所である三角山カフェ(三角山放送局内)に行く前に、CDショップへの挨拶回りに付き合ってもらう。杉沢さん の知り合いの店員さんがいたりしてとても助かる。三角山カフェでのライブは今回で早5度め。今までで一番のお客さんの入りで、 ライブも、打ち上げも盛り上がった。三角山のスタッフの皆さんは本当に気持ちの良い方 ばかりで、こちらもリラックスして毎回お酒が多いに進んでしまう。それにしてもこの日は飲みすぎた。
千鳥足でホテルに戻ってから財布がないことに気付く。やってしまった。

2001年6月3日(日)

この日はキャンペーンの一環として、キャナルシティーというショッピング街とカートというCDショップの2ヵ所でインストアライブをやる。
その後、テレビとラジオのコメント録りを2つこなす。
夜は前日に続きイマジンの小松さんと明日のキャンペーンでお世話になるブレインズの松田さんと会食。初対面 の松田さんは寡黙な方だけれど、内に秘めた情熱 と誠実さが感じ取られ、好印象。

2001年6月9日土曜日

2001年6月9日(土)

高山ピッキンでライブ。リハーサルの後、マスターの高原さんに自転車を借りて 高山の街を散策。相当な距離を走る。ツアー中に、どの街でも自転車を借りるこ とが出来たらなと思う。
この日のライブは気付いたら、いつもより随分長く演っていた。 打ち上げの飲み屋(とてもよい感じのお店なのに店の名前を忘れてしまった)で 久し振りにボブ.ディランを聴く。これがすごく良かった。酔っていたせいもあるかも知れないけれど、声とメロディーに震えた。ホテルに戻っても興奮覚めや らず、さっきの感動を思い出し、一人盛り上がる。なかなか寝付けなかった。

2001年6月8日金曜日

2001年6月8日(金)

もっきりやのスタッフの子達と深谷温泉の湯につかり、福光で遅い昼食をとってから、高岡もみの木ハウスへ。
リハーサルのあと時間があったので、日本三大大仏の一つ、高岡大仏を見学。そ の後、護国神社を見学して、敷地内の公園でくつろぐ。 温泉につかり過ぎて、ちと体の力が入らない感じ。 この日は、ライブの途中で飲んでしまう。くせにならないようにしよう。

2001年6月7日木曜日

2001年6月7日(木)

マネージャーテツは点滴を打って名古屋へ。僕はライブのため、金沢へ。
今日のライブ場所である「もっきりや」は僕の姉が学生時代に長くアルバイトを していたので、高校時代にも遊びに来たことがある。このときの想いでを一つ。
僕はとくにすることもなく、夜の金沢の街をひとりぶらついていた。そんな時、 ふいに占い師に呼び止められた。きっと無防備な顔をしていたんだろう。手相を みてくれるという。僕は言われるままに手を差し出した。 占い師は最初に僕の持病を指摘した。それが当たっていたので僕はすっかり相手のペースにはまってしまった。占い師は最初にドキリとさせておいて、その後は 明るい未来ばかりを予測して、僕を喜ばせた。お礼を言って代金を伺った時に占い師が一言。「高いよ」。なんと16歳の高校 生に5千円(20年前当時)を請求するのだ。それを払ってしまった自分が今だに情けなく、かわいそうに思う。その後、中味のすっかりさみしくなってしまっ たサイフを握ったまま、やりきれない気分で金沢の街を徘徊し続けたのを覚えて いる。
僕はそれ以降、占いと呼ばれる類のものに一切、かかわることを拒否してきた が、ここ数年でやっと金沢でのトラウマが消えてきたようで、最近は占い師や超能力者と呼ばれる人達と接する機会を楽しむことがある。

もっきりやのマスター、平賀さんは最高のお客さんの一人でもある。いつもカウ ンターの中で、それぞれの曲の演奏とパフォーマンスに対して実にヴァラエ ティーに富んださまざまなリアクションを返してくれる。そしてライブが終わる と、とても丁寧な感想を伝えてくれる。マスターを慕って、集まるお客さんは多 い。20年前にお会いしたときから平賀さんの印象は変わらない。素直で飾りが なく、音楽への深い愛情とこだわりを持った愛すべきマスターだ。 この日もいい夜だった。

2001年6月6日水曜日

2001年6月6日(水)

マネージャーテツといっしょに主に大阪の紙媒体を挨拶回りする。どこもリアク ションが良い。やっぱ、地元は暖かい。
福岡、大阪キャンペーンを通して、足を使ったフェイス.トゥ.フェイスの営業 と、とにかく関係者に音を聴かせてまわることの重要性を再認識。午前中から大阪市内を足が棒になるくらい、動き回ってクタクタになる。マネー ジャーテツは先日、関係者から風邪をうつされたらしく、かなり体調を崩しなが らも、気力で持ちこたえる。

2001年6月5日火曜日

2001年6月5日(火)

大阪のFM802でマネージャーテツと合流。
「雨上がり」シングルカットのきっかけをつくってくれた番組「サンデーアフタ ヌーン」 にゲスト出演。スタジオライブとトークを収録。
ライブでは大阪のボサノバ.バン ド、「のまど」の二人がガットギター&クロマティックハープで参加してくれて、「雨上がり」を歌う。
二人は7/13バナナホールのライブでもオープニングア クトを努めてくれる。さりげなく琴線に触れる歌と演奏をきかせてくれるいいバ ンドだ。
夜はデビュー時からお世話になっている大阪のイヴェンター、サウンドクリエイ ターの関係者と長時間、打ち合わせ。きたんのない意見を交わしあう。

2001年6月4日月曜日

2001年6月4日(月)

福岡キャンペーン2日目。スケジュールがぎっしり。午前中から松田さんといっしょに、食事の時間も惜しんで、主にFMと紙媒体を回る。キャンペーンでお会い した各媒体の関係者からは予想以上によいリアクションをもらう。松田さんのス ケジューリングもとても良かった。疲れたけれど、充実感があった。
キャンペーン最後のラジオ番組収録を終え、急いで駅へ。少し時間があったの で、地下街でラーメンを食べてから終電の新幹線に乗って大阪へ。

2001年6月2日土曜日

2001年6月2日(土)

キャンペーンのため夕方、福岡入り。
ホテルでチェックインした後、時間があったので天神界隈を散歩。僕の知る限り、地方都市の中で福岡は大阪とならんで現在、最も活気の感じられる街だ。夜は 新譜でお世話になっているイマジンレーベルの代表小松さんとデビュー当時のレーベルメイト、元ディープ&バイツの大野君と3人で会食。大野君は去年から福 岡の音楽制作会社で働いているのだそう。こんなにじっくりと語り合ったのは何年振りだかわからないくらい久し振り。とにかくお互い元気に再会できたこ とが嬉しい。

2001年5月31日木曜日

2001年5月31日(木)

アイカランバ.スタジオでヘルツのレコーディング。最近、メンバーのスケ ジュールを調整するのが大変で、なかなか作業が進まなかったけれど、ゲストを 除いてメンバーの録りの作業はほぼ終了。
現在録音中の作品はミックスの内容を変えたりして、アナログレコードとCDに分 けてリリースされる予定。
海外向けのアナログレコードの方では、僕はほとんどヴォーカルを取らず、英語 やポルトガル語でゲストシンガーが参加することになっていて、今までよりもイ ンストゥルメンタル色の強い作品になる。国内向けに出るCDでは従来通り僕が ヴォーカルをとるのだけれど、今回は曲によって、かなり今までとは違う歌い方 にトライしてみた。自分のヴォーカルスタイルを見つめ直す良いきっかけになった。

今月はいろんな街で忘れたくない、いい出会いを経験した。嬉しい再会もあっ た。それらの体験を、かみしめる余裕がほしいところ。
せわしない日々のなかで、心と体の柔軟性を保ちながら、立ち止まることも忘れ ずに暮らしていきたい。

2001年5月11日金曜日

2001年5月11日(金)

四日市フォーラムでライブ。またまた快晴。いい季節だ。
ツアーが進むにつれて体調も声の調子も良くなってる気がする。 けれど今日のお客さんはどうも反応が薄く、つかみに失敗。途中でライブの方向性を変え、その瞬間に思いついたやりたい曲をマイペースで歌ってゆく。その結 果、モノローグ的なスローナンバーがいつもより増えることになった。お客さん との掛け合いはほとんどなし。ステージでは独り言のように思いつくまま、よく喋り、ちと緩いライブになってしまったが、歌には案外集中できた。結局、いつ もより長いステージになった。エンターテイメント性に欠けるライブだったが、 自分自身はいつも以上にステージで解放されていた。 気負いなく、わがままになれて気持ちが良かった。

2001年5月10日木曜日

2001年5月10日(木)

近江八幡酒遊舘でライブ。今日も快晴。近江八幡のこじんまりして品のある町並 が気に入っているのでリハーサルを早めに切り上げて、散歩する。気持ちが落ち着いて、その気分のまま本番に入る。酒蔵を改造したこのスペース は音がとても良く響くので、弾き語りだとピアノはほとんどPAを通す必要がな い。響きを味わいながらライブを進める。
気持ちが良いのでピアノに「リクオ14号」という名前をつけてやった。ところ がライブの後半で「リクオ14号」のペダルが壊れてしまうハプニング。まあ、これはこれで面 白いかなと思い、アレンジを変えて最後の数曲を演奏する。かえって自分にとっては新鮮で良かった。今日は、その瞬間の自分の感情に無理なく、素直に従って演奏できた気がする。

2001年5月9日水曜日

2001年5月9日(水)

広島オーティスでライブ。快晴。日中は平和公園あたりを散歩してカフェで休憩。
体調良し。ライブも楽しめた。酒は控えめ、お好み食って早めに寝た。

2001年5月7日月曜日

2001年5月7日(月)

福岡B-1でスクリプト、千綿ヒデノリ君とジョイントライブ。
今日は客席がよくみえた。9割ぐらいが女性。始めてのお客さんが多いことを考慮してエンターテイメント路線で行くことにする。ナンパするような気分でライブをやった。
マネージャーからTEL。ロンドンに送ったヘルツのデモテープが評判。むこうのクラブ系音楽雑誌のチャートで、まだ発売されていないヘルツの楽曲が初登場2位 とのこと。ほんまかいな。

2001年5月5日土曜日

2001年5月5日(土)

大阪の名物ライブイヴェント「春一番」に出演。午後2時半からの出番と聞いて いたので12時半頃に会場である服部緑地公園野外音楽堂に到着、楽屋に張り出された本番のタイムテーブルをみたら、出番が最後に変わっていた。こういう適 当なところも、春一番らしさと納得する。
春一番は元々70’年代に関西フォークと総称された関西発の音楽ムーヴメント を象徴する野外音楽イヴェントとして70’年代後半まで続けられていたものが95’年に復活、それ以降毎年、ゴールデンウィークの時期に開催され続けてい る。基本的に集まっているスタッフは皆ボランティアで、ほとんど営利を目的にしない草の根的なイヴェントだ。
出演者は関西フォークの流れを組むベテランを中心に地元のミュージシャンも多 数参加する。アマチュアとプロが分け隔てなくステージに上がるのも大きな特徴の一つ。ボランティアのスタッフを除けば、ステージも客席も平均年齢は高く、 30をこえていると思われる。
会場全体にのんびり、まったりとした空気が流れていて、前席で観るよりも客席後方の芝生で横になって、ビールでも飲みながら観ることを好むお客さんが多 い。
かっての春一番には違う価値観が摩擦しあって生まれる緊張感があったのかもしれないが、今はそういう強い刺激を求めてこのイヴェントに参加している人は皆無だろう。どちらかと言えば同じ価値観を共有できる場に身を置いて、心をオー バーホールするために参加している人が多いと思う。とても貴重な究極の身内乗 りイヴェントだと思う。
毎年この時期、この空間に身を置くといつも、久し振りに故郷に帰ってきた時のような安心感と違和感を同時に抱く。自分が今大切にしたいのはこの違和感の方だ。ここからもっと遠くに離れてしまえば、こういう複雑な思いは消えてゆくの かもしれない。次にこの場所に戻ってきたとき、自分はどんな思いを抱くのだろ う。

2001年4月29日日曜日

2001年4月29日(日)

6月末に関西限定発売が予定されているマキシシングルのトラックダウンが終 了。
なんやかんやで夜中の4時頃までかかる。
自宅に戻って一睡もせず、和歌山紀州へ向かう。温泉につかったり、海を眺めた り。神社参りをしたりして、 しばらく骨休めする予定。

2001年4月28日土曜日

2001年4月28日(土)

約3年振りに携帯電話の機種変更をして、始めてiモードを使うことになった。 この日、さっそくメールが届く。お~「夏美さん」からだ。んっ?誰や、それ。 始めて届いたメールは出会い系サイトの案内メールで、以後毎日この手のメール が届いてうんざりしている。

2001年4月27日金曜日

2001年4月27日(金)

横浜石川町にあるクリッグというクラブで大阪出身のブラスバンド、ブラックボ トムブラスバンド(以後BBBB)の主催イヴェントに呼ばれ40分程ピアノで弾きがる。
スタンディングのクラブイヴェントということで弾き語りながらリズムの効いたナンバーを中心に選曲。
踊りながら楽しげに聴いてくれるお客さんに刺激されて、この日の演奏は、アレ ンジがどんどん変化してゆき、自然にアドリブが増えていった。歌の合間や曲間 ではしきりに歓声が飛び、益々その気にさせられた。随分とお客さんに乗せられ たライブだった。
BBBBというバンドの徳がこういう良い客層を集めているのだろう。 PAを使わずほとんど生演奏を通 したこの夜のBBBBの演奏は、今まで何度も観た中 で最もグルーヴィーで熱の 伝わってくる開放的なライブだった。

2001年4月25日水曜日

2001年4月25日(水)

秋葉原グッドマッンで谷口崇君、田辺マモル君とジョイントライブ。プロデュー サー、ドラマー、あるいはエンジニアとしてこの3人それぞれに関わりを持つ山 崎哲也君も急遽、パーカッションで参加。
谷口君との共演は今回がはじめて。予想以上にアグレッシブで心地良いグルーブを出してくれるので、セッションしていて、思わずニヤリとさせられた。 田辺君は独自の世界観をより強固なものにしつつあるようだ。情けなさが前面に 出ていた歌に凄みが加わってきた。
谷口君も田辺君もルックスはやわそうだが、演奏は力強く奥行きがある。僕も含め3人ともに文化系肉体派シンガーソングライターって感じがした。
山崎君とライブで共演するのは実に約10年振り。当時の僕はCDデビューしたばかりの20代で、山崎君は和歌山から上京してきたばかりの10代だった。この日、互いの10年間を確認しあえたような気がして嬉しかった。
点と点が線でつながり、僕にとっても、恐らく他の3人にとっても意義深い夜に なったと思う。
いいイヴェントのあとの打ち上げは楽しい。 夜更けまで飲んで久し振りに記憶が途切れた。

2001年4月18日水曜日

2001年4月18日(水)

しばらく微熱と立ちくらみが続いていたので、2日前に病院に行ったら、風邪との診断。
薬を飲んだせいか、昨日あたりから調子が戻ってきて、今日は元気。
日中は自宅で21日ヘルツのライブの準備。この日の対バンは東野純直君率いる AZ YOU LIKE。ヘルツと同じピアノトリオ編成のバンドだ。当日、お互いの楽曲 を1曲づつカヴァーしあうことになっているので、そのアレンジを考えるが、ヘ ルツらしい切り口がなかなか見つからず、相当に煮つまる。
発想を変えて、カヴァーというよりはリミックスのアプローチでトライしてみる。元曲がレゲエ調のポップス・ナンバーに仕上がっているのを、テンポをあげて 2ステップのリズムに変え、歌メロはインストにしてしまった。歌の代わりに途中でラップをフィーチャーすることにする。うまくいくかどうかちょっと不安。

夜は近くのプロレス居酒屋「ボンバイエ」で酒をつまみにCSのプロレス生中継を観戦。ZERO-ONEの興行で小川直也と三沢光晴が歴史的な初遭遇。お店 の中はプロレスファンでぎっしり、熱気にあふれていた。いや~盛り上がった。テレビ観戦で拍手や歓声を送ったのは久し振りだ。
ZERO-ONEの興行には刺激とストレスがある。
エンターテイメントの中に意識的にストレスを盛り込むのは難しい。けれど、人は満足しきってしまうと、想像力が 薄れ、対象への興味をなくしていく。お客を裏切って適度のストレスを与えるこ とが、次回への興味を持たせて、また興行に足を運ばせるのだ。
これは音楽をはじめ他の表現にも通じる話だと思う。

僕はほぼ毎晩、夢をみるのだが、最近、夢の中でやたらと人が死ぬ。先日とうと う身内を夢の中で殺してまった。重くてしんどい夢のせいで、その日は一日疲れが とれず、嫌な気分だった。
この話を知人にしたら、それはあなたが殻をやぶって変わっていこうとしている 意思をあらわしているのだと 説明される。
少し気持ちが楽になった。

2001年4月6日金曜日

2001年4月6日(金)

もう4月。東京の桜は散り始めている。

夕方に知り合いを誘って近くの公園でフリスビーをして遊んだ。
最初はうまく相手のいる場所へ届けることができなかったけれど、次第に感じがつかめてきた。慣れてくるにつれて、力が抜けて心は凪の状態に近づいていっ た。相手の方も同じ感覚だったように思う。僕らはとても心地良い波動を交換しあった。いつもこんな風に思いを伝え合えたらなと思う。

帰り道、桜並木の奇麗な川沿いの遊歩道を自転車で走る。緩やかな風で桜の花びらがひらひらと舞っていた。その情景を観て、ふと2年前のことを思い出した。

疲れのせいか少し無気力な日々が続いていた。たいしたわけもないのに、何もかもが、どうでもよく思えた。その夜も心にかかったもやがとれなくて、投げやりな気分から抜け出すことが出来なかった。そんな時に僕はなにげなく夜の散歩に出かけた。
そして今日の帰り道と同じ川沿いの遊歩道を歩いたのだ。
満開の夜桜は不感症気味の心を少し揺らしてくれた。しばらくすると、今日と同じような緩やかな風が吹いて、桜の花びらがひらひらと舞いだした。
僕は川の流れに目をやった。
川面に花びらが落ちて、静寂の中、それらがゆっくりと流れてゆく、そんな光景を月の光が映し出してくれた。
静かな時間の流れに身をゆだねながらいつからか僕はこんな言葉を心の中でリフレインしていた。「せっくだからー。」「せっくだからー。」何度も何度もそう 繰り返していた。生きて感じるということが、愛しく感じられた瞬間だった。この夜の散歩を境に僕は再びコンディションを取り戻していった。

僕がこの出来事を覚えているのは多分、歌に残すことが出来たからだ(そのままその時のことを歌っているわけではないけれど)。
僕らはあまりにも多くの記憶を無くしてしまう。もしも、泣きながら生まれてきた時のことや、目も見えず、話も出来ずに世界に向き合っていたことや、一人で は決して生きてこれなかったことや、無心に遊び続けた子供の頃の記憶を、無くさずに持ち続けていられたら、これほどにこんがらがったり、虚無に陥ることも こともないんじゃなかろうか。
僕は大切な記憶を失わないために、歌い続けているのかもしれない。

2001年3月26日月曜日

2001年3月26日(月)

3/13(火)前日に続きヘルツのレコーディング。当初の予定通 り5曲のリズム録り を終える。やばい。今までにない手応え。 レコーディングの後、下北沢でデザイナーの某氏と打ち合わせ。 もう3度めの打ち合わせだというのに、今だにぴんとくるアイデアが相手の方から出て こない。困ってしまう。 仕方なく、このコラポレートは中止させてもらうことにした。

3/14(水)新潟のジャンクボックスというライブハウスが主催するブルース系イ ヴェントにゲストで呼んでもらい、弾き語りで50分程のステージをやる。 自分以外の出演バンドは地元のコテコテのブルースバンドばかり。彼等の演奏からは 黒人ブルースへの憧れが無防備なほどストレートに伝わってきた。自分が音楽をやりは じめた80年代半ば頃の京都や大阪には全盛ではないにしても、こんなブルースバン ドがたくさん存在していて、ブルース系のイヴェントもよく行われていた。楽屋で演 奏を聴いていて少し懐かしさを覚えた。
こういうイヴェントにはよく、客席にしょうもないつっこみやヤジを飛ばすオヤジが いたけれど、この日のイヴェントには、そんな懐かしいオヤジまで登場した。僕のス テージでもやたらと客席から存在をアピールするので迷惑がってるお客さんもいたよ うだけれど、ステージと客席で久し振りに、そういうオヤジとのやりとりを楽しんだ。 元憂歌団の木村さのようにはいかないけれど、昔よりは図太くなって、客あしらいも うまくなった。

3/15(木)新潟から帰宅して、すぐにBSジャパンラジオの番組収録の為、渋谷へ。 トークを交えながらリクオとヘルツの曲を3曲オンエアーしてもらう。 その後、続いて渋谷で打ち合わせ。
3/16(金)下北CLUB QUEでロッキンタイムのライブをみる 。ロックステディ.スタ イルのレゲエ.サウンドに飾りのない素直で力強い歌を聴かせてくれるバンドだ。最近、 知った日本のバンドの中でも特に気に入っている。この日は彼等のライブ初体験。 歌心とグルーヴが心地よく絡み合った、いいライブだった。

3/18(日)吉祥寺でコーザノストラの鈴木桃子さんとリハーサルしたあと、下北 のラ.カーニャでツンタのピアノ弾き語りライブを2部から観る。まだ少し表現に遠慮 がある気がしたけれど、ツンタの魅力を再認識できた。 ライブの後、観に来ていたカルメン.マキさんやツンタ達と飲む。かなりの深酒。

3/19(月)あれもこれもしなければと気はあせるが、作業は進まず。

3/20(火)気の重い話しあい。 「お節介をやくほど、どこかで相手を追い詰める。自分にできることと、出来ないこと を見極めるのは難しい。」こんな言葉を思いだしたりしながら自問自答。

3/21(水)日中、気分転換に地図を見ながら砧公園までチャリで散歩。道すがら たくさんの花が目に入ってくる。芳しい季節になった。 砧公園の梅の花はもう散ってしまっていて、桜もまだ固いつぼみのままだったけれど、 もくれんの白い花がきれいだった。

3/22(木)花を生けて、部屋のいろんな場所に置く。 鈴木桃子さんとリハーサル。 新曲を2曲同時に作りはじめる。いい感じでインスピレーションがわいたのに、集中 力が続かず、完成まで持っていけず。

2001年3月12日月曜日

2001年3月12日(月)

ヘルツのレコーディングがスタート。 今回はエンジニア兼プロデューサーに、新しい仲間、山崎哲也氏を迎え入れ、録音も彼 のホームスタジオで行っている。
今日は予定していた2曲のリズムトラック録りを無事終える。 予想以上に良い音で、ごきげんなトラックが録れた。 現場はとてもいい雰囲気だ。皆、ほどよくリラックスしていて、遊び心と偶然を大切に する空気が流れている。
今回のレコーディングは生音を生かしながらも、曲によってはハードディスクレコーデ ィングによる編集作業を大胆に行っていく予定。インストゥルメンタルの要素の強い、 かなり実験的な作品になりそう。新しい試みにいろいろとトライ出来そうで、わくわく している。
新しい仲間、山崎君は口の減らない20代関西人。出会った頃の彼はまだ10代で、 上京して来たばかりのドラマーだった。それが、3年前に会った時には若手バンドの プロデューサーになっていた。去年、再会した時には自宅にスタジオを構え、エンジニ アまでこなすようになっていて、態度のほうもますますでかくなっていた。そのとき、 久し振りに一緒に仕事をしてみて、ぴんとくるものがあったので、その後接触を試み、 こちらの企みに参加してもらうことにした。
彼は関西人気質のぼけとつっこみ、東京人らしい突き放し、べたとクールといった 両面を使い分けるところが頼もしい。有山じゅんじから友部正人を経て、ミッチェル. フレーム、トータスの話まで通じる貴重な存在だ。
これからは才能のある人材を集めて、どんどんコンラポレートしてゆくつもり。それ ぞれに独立した人間同士がゆるやかにつながるチームができればよいと思う。 才能を発掘し、引きだし、集めることによって、ひとりでは出来ない作品が生みだせ たらと思う。

2001年3月1日木曜日

2001年3月1日(木)

弾き語りソロアルバムのレコーディング終了。
昨日はレコーディングの最終行程であるマスタリングを、六本木のスタジオで行う。 予想以上に良い音に仕上がった。信頼するマスタリング.エンジニアの菊池さんが、 作品を色々と褒めながら作業を進めてくれるので、気分がよかった。
今回のレコーディングは、いわゆるレコーディング.スタジオを使わずに、キーボー ディストである小川文明さん宅の6畳程のピアノ室に器材を持ち込んで録音した音を、 ミュージシャンでありエンジニアでもある錦織さんの自宅スタジオに持ち込んでトラ ック.ダウンまで済ましてしまった。つまり宅録作品である。
この録音方法が良い効果をもたらし、味わいのある音に仕上がった。
発売は5月になりそう。
今年はヘルツも含め、かってない程のリリース.ラッシュ。
ここ数週間、大阪のFM802では3/5梅田バナナホールのイヴェントの前宣伝で ほぼ毎日(月~木)、昼間の時間帯に「雨上がり」がオンエアーされているそうだ。 結構、反響があるそうで、僕のところへも大阪の知り合いからオンエアーを聴いた との連絡がいくつか入っている。
最近嬉しかったことの一つが、営業回りで失敗して茶店で落ち込んでいたら、ラジオ から「雨上がり」が流れて来て元気がでたところだ、という知り合いからのメールだ。

2001年2月18日日曜日

2001年2月18日(月)

京都を含めて6日間に及んだライブイヴェント「リクオのハプニングDAYS」が無事 終了。
昨夜は最終日にふさわしい盛り上がり。今後への期待を残して、イヴェントの幕 を降ろすことが出来たんじゃないかと思う。
シークレットにしていたヘルツでの演奏も、予想以上の手応え。 メンバー3人が"初心"に戻って、弾けることができたのが大きな成果 。
自分にとっては"気付き"の6日間でもあった。
ゲストの皆さんに感じた尊敬、信頼、対抗心、嫉妬は今後の自分に良い効果をもた らすはずだ。
足を運んでくれたお客さん、支えてくれたスタッフ、ゲストの皆さんに感謝。

2001年2月11日日曜日

2001年2月11日(日)

ツアーから戻っても、レコーディングやハプニングデイズの準備のため忙しい日々 が続いている。
今日は一日、部屋にこもって譜面を書いていた。試験前の追い上げのような気分。
いやいや、あの無意味な暗記に比べれば、なんと有意義な時間だろう。
そういえばこの前も、単位が足りなくて卒業できない夢をみた。僕以外にも、中島らもと大槻ケンジが、卒業できない夢を見続けているとエッセイ の中で語っている。 いまだにそんな夢をみるのは、区切りのない人生を生きているからなのかもしれな い。
僕が20才を過ぎてからの過去をあまりなつかしく振り返ろうとしないのは、それ 以降の記憶の多くが完全な過去の思い出になりきれていないからだろう。思い出す と胸が締め付けらるような事柄が多くてつらくなるのだ。
卒業することが、何かを割り切って、切り離してゆくことなら、僕は一生、卒業す ることはないかもしれない。こんなことを、誰かが言っていた。
いよいよ近づいて来ました、東京版ハプニングデイズ、取り合えずは初日を見逃すな。最終日はカーニバルだあ~。メール予約、まだの人は急げ!!

2001年2月8日木曜日

2001年2月8日(火)

東北ツアーから無事、帰宅。
真冬の東北は初体験。
3日目の目的地、山形県川西町は恐ろしく雪深いところだった。 仙台からJR仙山線に乗り換えた時点で、車窓からの景色がどんどん濃い雪化粧を施し始 めたので、やばいとは思っていたのだが、まだ山形市内からH氏の車の運転で川西町に 向かい始めた頃は、水墨画を見るような田舎の雪景色に見とれる余裕があった。 しかし、車が米沢をこえたあたりから積雪量は更に増し、強力な地吹雪が始まり、数メ ートル先の視界が見えないという、とてもスリリングな状況に追い込まれてしまった。 ところが僕は、こんな危機的な状況の最中、連日のライブの疲れのため、強力な睡魔に 襲われてしまった。 「寝てはいけない、寝てはいけない」 雪なかの遭難者のような気分で自分に言い聞かせたのだが、次第に目の前の景色が夢の ように思えて、意識を無くしてしまった。 はっと目が覚めたら「もうすぐ近くですよ」と運転中のH氏が教えてくれた。しかし近 くと言われても回り一面深い雪ばかりで、まるで遭難車のなかにいるようなのだ。 しばらくして視界に民家が現われ始めて、少しほっとする。 予定よりかなり遅れて、ようやく目的地のライブスペース.ジャムに到着。 自然の猛威に遭遇して、「人はなんでこんな気候の厳しい土地で暮らすのだろう」な どと、おせっかいで素朴なことを考えた。
僕は「アリとキリギリス」の話を思い出した。それまでは、どちらかといえば後先を 考えずその瞬間を楽しんでいるキリギリスの方にシンパシーを抱いていたのだが、こ んな土地じゃあ、そうそうキリギリスではいられそうにない。 開演が近づいても吹雪は止まず、とてもお客さんが来れる状況には思えなかったのだ が、意外にも用意された席は開演前にほぼ、埋ってしまった。しかもスタートから出 来上がっているお客さん達で、やたらと乗りがよい。ただ騒ぐのではなく、好奇心が旺 盛で、積極的に楽しみを見つけようとする姿勢が感じられる。理想に近い客層と言え た。オーナーの板倉さんのこだわりを反映して、ピアノはよく調整されており、会場 の音鳴りもとても良かった。これだけの条件がそろうライブというのも、なかなかない ものだ。
おかげで、いいライブが出来たと思う。 打ち上げでは、地元の人達と多いに語り合う。 ジャムのオーナー、板倉さんは話し出したらなかなか止まらない、饒舌な人だ。 こだわりと遊び心を持った相当な趣味人でいろいろと感心させられてしまった。 冬はスキー、春は山菜とり、夏はバーベキューパーティーと季節ごとの遊びも非常に 充実しているようでうらやましく思った。 板倉さんはじめ、この日出会った人達は、自然と共生し、工夫しながら川西町での暮 らしを楽しもうとする姿勢が、感じられた。 打ち上げの席で「この土地の気候は厳しいばかりじゃないんですよ。」と僕に言った人 がいた。こんな雪深い季節だって、彼等は楽しむ術を知っているのだろう。 また違った季節にも川西町を訪れてみたいと思う。
今回の東北ツアーはどの場所も印象深く、ここですべて紹介できないのが残念。 新しい出会いと再会に感謝。

2001年1月30日火曜日

2001年1月30日(火)

10年来の親友である某ミュージシャンの結婚パーティーが、麻布にあるクラブを借り 切って催されたので、参加してきた。
少し遅れて到着。昔、所属していた事務所のマネージャー&スタッフと同じテーブルを 囲んだ。かっては色々あって感情的になったりしたこともあったのだが、今は互いに元 気でいることを確認できるのが素直に嬉しい。
じゃ~また今度、などと言いあって別れて以来、すっかりご無沙汰して、久し振りに会う顔も多く、少し同窓会に参加したような気分になった。こういうパーティーの目玉 は決まって出席したミュージシャン仲間による演奏のプレゼ ントである。こういった場でのパフォーマンスは意外に、プレッシャーのかかるものだ。リハーサルは出来ず、音響も整わず、お客のステージへの集中力も通 常のライブに比べ れば低く、しかも玄人ばかりの客席の目と耳は普段のライブよりも厳しい。よって、おのずと演奏者の真価が問われてしまい、なかなかやっかいなのだ。
僕は3番目の演奏が予定されていた。 僕の出番の前のパフォーマー、今や売れっ子プロデューサーT.Y氏はお笑いに走った。これが会場の笑いを多いに誘い、受けた。同じテーブルを囲んでいたかってのスタッフAちゃんが「この後じゃ、やりずらいよね」 と話かけてくる。ところが僕の方は、この日、実に気分良く酒が進み、既にほろ酔い気分で、怖いもの なし状態に近づきつつあった。今までの経験上、僕はこういう場合、25分以内なら よいパフォーマンスが出来るのだ。この日も例外ではなく、とても気持ちよく演奏して、なかなかの喝采を浴びた。おとなしく早めに帰るつもりが、これでより弾けてしまい、2次会にまで参加してしま った。
再会もあれば、新しい出会いもあった。元ルースターズの池畑さんのドラムをこの日、はじめて生で聴いて、多いに感じるもの があった。2次会では、話ができて嬉しかった。シアターブルックのタイジくんとはよく、スタジオなどで遭遇していたのだが、この日 酒の席で、はじめていっしょに盛り上がった。ノリの良いナイスな奴だ。いっしょに演奏 したくなった。
やはりこもっていてはいかんなと思った。

2001年1月27日土曜日

2001年1月27日(土)

磔磔3DAYS、無事終了。アリガトウ、って気持ち。
東京に戻ってからは、ソロアルバムの準備に入っている。 どこから、いつでるかもまだ正式には決まっていないけれど、来週にはレコーディ ングに入る予定。内容は「ヘヴンズブルー」に続く完全弾き語り。今年はリリースを増やしてゆく予定。
ヘルツのアナログ.リミックス盤も3月末に出る予定。
先日、あがってきたばかりのDJムロ氏のリミックスを聴いたのだけれど、とても良か った。
東京版ハプニングデイズのリハーサルにもそろそろとりかかる。初日のトモフスキーとは初共演。トモフスキーはシャイな人だと聞いていたのでまず、ファック スでのやりとりから始めて、最近、電話に移行。長話などするようになって、 次第に打ち解けてきた気がする。音合わせが楽しみ。 二日めの祥子ちゃんとは京都に続いて大人っぽくからむつもり。ここにキョンさんが 加わって微妙な3画関係がおこりそう。最終日はブラックボトムと横山剣さんに、みんなが知ってる秘密ゲストが加わって カーニバル気分で盛り上がる予定。意外なカヴァーナンバーも飛び出すかも。 つうわけで皆さん、待ってます。

2001年1月18日木曜日

2001年1月18日(木)

リハーサル漬けの毎日。
昨日は横浜で友部正人さんと、今日は下北で鈴木祥子ちゃんとスタジオ入りして、それ ぞれとの共作ナンバーが完成。もちろん明日からのハプニングデイズで披露するつもり。 ほんとに貴重なライブになりそう。
祥子ちゃんとのリハーサルの後、忙しい合間を塗って美容院で髪をカットしてもらった。 鏡の前で1時間、まじまじと自分の顔を見続ける。こうやってカットの時に自分の顔と対面 する度に、なんや俺ってこんな顔やったんかと、ガッカリしてしまう。それでしばらくすると、まあしゃあないな、という気持ちに落ち着く。 でもカットが終わって、ワックスなんかで髪を整えてもらってから、再び鏡に写 った 自分をみると、おっ、意外にいけてるかも、なんて思ったりしているのだ。

というわけでいよいよ始まるハプニングデイズ、意外といけるかもしれないと思って いるリクオが、焦らず、力まず、気合いを入れて、最高の夜をお届けします。 よろしく。

2001年1月13日土曜日

2001年1月13日(土)

遅れましたが、明けましておめでとうございます。
月並ですが、今年もよろしく。 年明けの暮らし振りを簡単にまとめてみました。
1/1(月)京都に帰らず東京で年を越す。 近所の神社で初詣。おみくじは引かなかった。 "sight"という雑誌に載っていたジョン・レノンのインタビューを読む。 ジョンがロックンロールに対する強い思い入れを語っている箇所を読んでいるうちに、 自分が本格的にバンドに熱中し始めた大学生時代の気持ちを思い出した。 当時、自分が心をときめかせながら、がむしゃらに演奏していた音楽はロックンロール という言葉が最もあてはまる。それは僕の感情を直撃し、心と体を一気に開放させた。 現在の僕の音楽がロックンロールと呼ばれることはないかもしれないけれど、自分は 今もロックンロールの延長線上にある音楽を目指しているのだと、ジョンのインタビ ューを読みながら思った。
1/2(火)年末に友部正人さんから送られてきた詞にメロディーをつけてみる。 なかなか納得のゆくメロディーが思い浮かばず、何度も作り直す。 結局、この日は完成せず。
1/3(水)他人が口ずさんでいたメロディーをなにげなく聴いていたら、次第にそ ちらの方に耳を奪われる。巷で流行っていた曲なので前から知っていたけれど、その ときはじめてメロディーの良さに、気付いた。その瞬間、自分の今、作っている曲に 欠けている何かがわかった気がした。このちょっとした出来事が曲作りをすすめる良 いきっかけになった。
1/4(木)吉祥寺までパルコとマルイのバーゲンに行ってきた。 吉祥寺は渋谷や新宿に比べれば、人通 りが少なく、そのわりに何でもそろっているの で、よく買い物に出かける。
1/5(金)友部さんの詞にようやく納得のゆくメロディーがつけられた。 さっそく弾き語りをMDに録音して友部さん宅へ送る。 某氏との共作用に考えいるつくりかけのナンバーも某氏に送る。
1/6(土)スタジオを借りて個人練習。
1/7(日)11日のNHK-FM公開録音ライブに向けて、今年初のヘルツリハーサル。 久し振りに3人で合わすヘルツの楽曲。や~気持ちよい、これやで!という瞬間が 何度もあった。少し初心に帰れた気がして嬉しかった。 部屋に戻ってからも興奮が残っていて、夜更けまでずっと鍵盤の前に向かっていた。
1/8(月)ヘルツリハーサル2日め。 前日のリハーサルの後、リハテープを聴きながら、あれやこれやと考えてきたこと を試してみるも、結局、却下になることも多く、少しがっかりするが、演奏がツボ にはまりだすと、そんなことは忘れて気持ちよくなる。 また夜更けまで鍵盤の前に向かっていた。
1/9(火)ヘルツリハーサル3日め。 はりきり過ぎたのか右手首が少し痛くなってきた。 明日は休もう。
1/10(水)ある一日のささやかな出来事を思い出していたら、思いがけず詞とメ ロディーが同時に思い浮かぶ。形になりそうだ。