2009年4月2日木曜日

桜と木蓮

桜が開花し始めた。
 この季節は、忘れていたはずの「感情の記憶」を呼び覚まされるような感覚があって、心が不安定になりがちである。
 
 始まりが痛みであるのは、過ぎ去って還らないものを後ろに残して始まる、そのことが痛いのだ。

 一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永続性、永遠の循環性をみるからだ。それは魂が故郷へ変えることを希うような、たぶんそういう憧れに近いのだ。 ー池田晶子「暮らしの哲学」より

  職業軍人だった父方の祖父が自分の幼い頃に、「同期の桜」という軍歌を風呂場で何度も歌って聴かせてくれたことを、この季節になると思い出す。死を覚悟し た航空隊の兵士と桜の美しい散り際を重ね合わせた歌詞のせつなさや恍惚感は、幼な心にも伝わった。自分は、この歌以外に祖父が歌っているところを一度も見 たことがなかった。
 満開の桜がもたらす恍惚感のなかには、狂気や死のニオイが含まれている。桜の花はあまりにも美しすぎるのだ。
「この恍惚感とどう向き合ってゆくか」
それは大げさに言えば、自分が生きてゆく上でのテーマの一つのように思える。

 この時期には木蓮の花にも目を奪われる。桜よりも花びらの幅が広く、厚みがあって、強靭な生命力を感じさせる花だ。地球上で最古の花木と言われているそう。
 木蓮の花の散り際は、桜の美しく潔い散り際とは対照的である。往生際が悪く、茶色に変色して朽ちてゆく姿をしばらくさらし続けるのだ。しかし自分はそんな惨めな姿にシンパシーを覚える。
 もしかしたら同じ季節に桜と木蓮の2つの花を眺めることによって自分は心のバランスを保とうとしているのかもしれない。
 
 昼間は新林公園で花見をして、夕方は海沿いのカフェで過ごし、夕暮れの美しい富士山のシルエットをながめ、夜は片瀬江ノ島で打ち合わせをすました後、藤沢駅近くへ流れて飲み屋を2軒ハシゴ。
 日中の自然と夜の酒場、どちらも味わえるのがこの街の良さだ。

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