2011年5月29日日曜日

5/29(日)片瀬江ノ島にてSMILE&POWER !

「UMISAKURA MUSIC FESTIVAL 2011 SMILE&POWER LIVE」
【場所】藤沢市片瀬江ノ島 虎丸座 
【出演者】リクオ・ウルフルケイスケ
SPECIAL APPEARANCE:上中丈弥(THE イナズマ戦隊) ・伊東ミキオ
サポート:寺岡信芳(ベース)・小宮山純平(ドラム)
 震災直後は、藤沢市が計画停電の地域に入っていたこともあって、この日のライブが開催できるのかどうか、開催すべきなのかどうか、海さくら代表の古澤君と一緒に悩んだり心配したりした。開催できてよかった。
 イベントのサブタイトルは古澤くんからの提案で「SMILE&POWER」と名付けられた。
 「幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになるのだ」
 これは3.11以降に出会った言葉の中でも、最も印象に残っている1つ。感情を貯めずに泣くことも大切だけれど、涙の後に、涙を超えて笑おうとする意志 が、前向きに生きてゆく力を生み出すのだと思う。震災以降もツアーを共にし、この日の共演者の一人であるケイヤンの底抜けの笑顔には、そういった意志や信 念を感じる。
 正直に言うと、3.11以降、涙腺がゆるみがちな自分がいた。心が弱っていたのだと思う。ケイヤンとのツアー中、とある会場では、ステージ後半に熱いも のがこみ上げてきて困ってしまった。泣いてしまったら歌えないから、なんとかぐっとこらえて演奏に集中した。
 最初はちょっとストレート過ぎるかなと思った「スマイル&パワー」というタイトルが、次第に自分の今の心情にタイムリーな言葉に思えるようになった。
 この日のライブは、そのタイトルにふさわしい、客席もステージも笑顔に溢れた、エネルギッシュで弾けまくった内容になった。
 ミッキーの弾けっぷりは、自分が知る中で過去最高だったように思う。初共演の丈弥くんは歌だけでなくキャラも最高だった。まさに関西芸人魂爆発。ケイヤ ンとのからみも最高だった。ミッキーも丈弥くんもステージに上がる迄、思いっきり緊張感とモチベーションを高めて、一気に爆発してくれた感じ。自分は、時 にはやんちゃに、時には指揮者のような気持ちでパフォーマンスした。多分、ケイヤンもそんな心持ちだったと思う。
 小宮山君(ドラム)と寺さん(ベース)のリズム隊の相性もバッチリだった。小宮山君とも初共演だったのだけれど、ああいう柔らかいグルーヴを出せるドラマーは貴重だと思う。これからが増々楽しみにな才能。彼とは、また一緒に演奏することになりそうだ。

 次の海さくらフェスは7.23(土)虎丸座。共演者は、山口洋、三宅伸治。ステージのプロデュースは山口洋にまかせることになった。もちろん3人によるセッション中心のステージになると思う。楽しみ!
 そして、今年も江ノ島展望灯台サンセットテラス(野外)で9.10(土)にたくさんの出演者が集まって、フェスが開催されます。お楽しみに。

2011年5月22日日曜日

もうしばらく島に残りたい気分。

喜界島 Funky Station SABANI
 奄美から喜界島まで飛行機でわずか10分程。飛んだと思ったらすぐ下降。
 空港に着いたら、明日のライブ会場SABANIのマスター・栄さんが待ってくれていた。以前と変わりない、自然体のゆったりとした佇まい。4年振りの再会という気がしない。少し間が空いていただけのような感じ。
 天候は曇り時々晴れ。喜界島でも自転車を借りて、島を走る。街の何ヶ所かで今日のライブを告げる立て看板を見かけた。島には信号が1つしかない。子供達が学校を出て、島外に働きに出た時に、信号に戸惑わないようにとの意図で設置されているのだそう。
 サトウキビ畑に囲まれた道を走ったり、ビーチでのんびりしたり、祭りの野外ステージで島唄の演奏を聴いたり、限られた時間の中で島を堪能する。 
 ライブも盛り上がったなあ。4年振りに島を訪れて、4年間待ってくれている人がいるなんて、ありがたい話だ。
 もうしばらく島に残りたい気分。

2011年5月21日土曜日

5/20(金)「美しい暮らし」とは?ー奄美大島にて

 朝方、ソウルフラワーユニオンwithリクオ被災地ツアーから帰宅。急いで、バックの荷物を入れ替え、再び部屋を出て、羽田空港に向かう。
 機内では、羽田離陸から奄美着陸までほぼずっと爆睡。 
 奄美大島を訪れるのは4年振り。もうそんなに経ってしまったのか。明日のライブ会場ASIVI代表の麓君が、空港まで車で迎えに来てくれる。変わりない朴訥な笑顔にほっとする。
 奄美はとっくに梅雨入りしていて、この日も時々小雨がぱらつく生憎の天気。それでもやはり南国、暖かい。
 奄美市内に向かう車中、昨年10月に奄美を襲った豪雨災害の爪痕である崖崩れが方々で見られた。災害の際に、貴重な情報源として大活躍したのが、島内唯一のラジオ局「デイウェイブ」だったそう。そのラジオ局を4年前に立ち上げた首謀者が麓君。
 車中、カーステからずっとデイウェイブが流れていたのだけれど、とにかくパーソナリティーのトークがゆったりしてる。島唄ばかりが流れる番組があったりして、地域密着で、すごくローカル色がある。
 夕方にデイウェイブの番組収録を2本すまして、夜は麓君と会食。いろんな話で盛り上がる。
 ライブハウス、スタジオ運営、ラジオ局、イベント制作等さまざまな事業に関わってきた麓君が、今度は第1次産業への進出を考えていることを知って、とて も興味深く思った。彼は今、島初のコーヒー豆の栽培にチャレンジしているのだそう。彼がトライすることは、すべてつながっているのだ。
 麓君の会社は、この4年の間に、スタッフも倍増して、規模が随分大きくなったようだ。ただ本人からは、出世欲とか事業欲とか、ぎらぎらした我欲を感じない。何をするにも、島を思う気持ちが、彼の一番のモチベーションになっているのだろう。
 麓君の中には「『美しい暮らし』とは?」という問いかけが常にあるように思える。たくさんの話をした中で、「どんな状況でも『混沌』の部分を残していたい。プロセスを大切にしたい。」という彼の言葉が特に印象に残った。
 麓君のような「美しい暮らし」を探し、実践しようとしている人達を紹介するのも自分の役割の1つかもしれない。

5/21(土) 奄美の空気を吸ってライブ

奄美市 ASIVI
 日中は自転車を借りて、市街と海沿いを走る。ゆったりとした空気にほっとする。街の方々でこの日のライブを告知するポスターを見かけた。
 4年振りの奄美ライブということで、客入りが心配だったのだけれど、予想以上にたくさんのお客さんが集まってくれて、嬉しかった。奄美で吸い込んだ空気が、この夜の演奏にも反映されたように思う。とてもいい時間だった。
 たまたま奄美に帰省していた我那覇美奈ちゃんが観に来てくれて、再会できたことも嬉しかったなあ。

 奄美では関東在住の知人親子とも思いがけず再会。たまたま旅行で来ていたのだと思っていたら、放射能汚染の子供への影響を考えて、奄美移住を計画していて、部屋を探しにきたのだそう。
 そんな時代になってしまったのか。

2011年5月19日木曜日

5/19(木)忘れずにいよう

この日はまず、宿泊先の松島から南三陸町志津川へ向かう。この辺りの津波の被害も凄まじかった。こういう光景を受けとめて、想像力を働かせるには、自身の心の容量に限界があるようで、自動的に感情にリミッターがかかったような状態になった。

 志津川でもいくつもの出会い、再会が待っていた。この日のライブ会場で避難所になっている志津川高校では、ボランティアで南三陸町に入っていた西村茂樹 君と再会した。彼がグルーヴァーズに在籍していた頃、自分は彼と同じ事務所に所属していたのだ。もう20年くらい前の話。彼は今、バンド活動を休業して看 護士の仕事に就きながら、ボランティア活動をしているそう。まさか、志津川で再会することになるとは。
 西村君の眼差しは昔に比べて随分柔らかく感じた。こんな風にお互い、気構えることなく話ができたのは、始めてのように思えた。嬉しい再会だった。
 避難所で出会った内田兄弟からもいいヴァイブを受け取った。2人は、志津川でバーを営んでいたのだけれど、お店は4千枚のCDと共に、津波に飲まれてしまったそう。3・11以降しばらくは、遺体を見つけては、避難場所まで運ぶ毎日だったそう。
 お店のほとんどの物が流された中で、調理師免許だけが見つかったことをきっかけに、彼らはボランティアで避難所の調理を担当することを決める。とにかくキャラ立ちがよく、明くて、バイタリティーのある兄弟。
 仙台のサウンドエンジニアの佐藤ヒロさんとも思いがけず再会。こちらに来てから、思っていた以上にいろんな人達が、被災地に集まっていることを知った。
 志津川高校でのライブは、PA機材、マイクなし、電子ピアノ以外は生音、生声で行われた。その場にいた皆が、よく歌い、よく笑い、多いに拍手喝采して、場は素晴らしい盛り上がりになった。音楽、歌の本来の有り様、役割を感じた。
 いくつもの避難所を回ってみて、それぞれの避難所で状況に違いがあるようだった。その中でも、特に志津川高校は、物資、食料が不足しているようだった。
 本当はこの志津川でのライブが今回のツアーのラストになるはずだったのだけれど、隣町の避難所になっている南三陸歌津中学校の先生からの希望で、急遽追加公演が決定した。
 避難所になっている歌津高校体育館でのライブは、ライブ前にトラブルがあったり、告知が行き届いていなかったりして、今回のツアーの中で最も難しいライブだった。
 ライブ中は、MCも歌も、とにかく大きな声を出すことを心掛けた。ステージを離れて、場内を回りながらアコーディオンを弾いたりもした。途中から、踊り 出すおばさんが登場したり、ご当地ソング「おいらの船は300トン」で盛り上がったり、ライブは予想以上に形になり、暖かい拍手をいただいた。人間力、芸 人力が試されるようなリアルなライブだった。
 歌津高校では演奏中に余震を体験した。揺れとともに不気味が地鳴りが響き渡り、演奏は途中中断された。このような大きな地鳴りを聞くは始めての体験だっ た。けれど、避難所の人達は、全くあわてた様子がなかった。このような余震は日常で、慣れっこなのだそう。

 歌津中でのライブの後、今回のツアーに同行したメンバー全員で、海沿いにある防災対策庁舎後に立ち寄った。この場所で職員の遠藤未希さんが津波に襲われ るまで無線放送で非難を呼びかけ続けたそうだ。夕暮れ時に、少し離れた場所から、庁舎後をながめ続けた。
 
 今回のツアーを通して、本当にたくさんのものを受け取った。被災地で見たこと、感じたことは、まだ自分の中で整理がついていない部分があり、この日記では書ききれていないこともたくさんある。
 忘れずにいようと思う。

 今回のツアーは、ピースボードさん、ロフト・プロジェクトさん、仙台のフライング・スタジオさん、蒲鉾本舗鵜高政さん等の尽力によって実現した。この縁を大切に繋いでゆきたいと思う。このツアーに関わってくれたすべてに人達に心から感謝します。

2011年5月18日水曜日

5/18(水)「音楽ってすごいな」by中川敬

 この日は、石巻と女川で2回公演。
 まず午後から、避難所になっている石巻市立湊小学校の体育館で演奏。学校に到着したら異臭が鼻をついた。学校の近くにいくつもある水産工場が津波にやら れ、海産物が腐って放つニオイが、異臭の要因らしい。埃も舞っていて、多くの人達がマスクを着用していた。
 目の前で自衛隊の人達がお昼の炊き出しをしている最中に、ライブは始まった。1曲目の「聞け万国の労働者」が始まると、自衛隊の人達が率先して手拍子してくれた。なかなか体験することのできない光景だ。
 3・11以降、避難所でのライブは始めてだったので、やはり最初は手探りの感じ。演奏を楽しんでくれている人もいれば、興味なさげに食事をすませて、演 奏の途中で退席する人もいた。客席最前列で終始にこにこ顔だったおじいちゃんや、手拍子のリズム感がバッチリのおばあちゃん、ライブの後に「ほんとに来て くれてありがとう」と話しかけてくれたおばちゃん等に、こちらが力をもらった感じ。
 次の公演先は石巻から約15キロ離れた女川町。津波の被害の大きさは聞いていたし、テレビやYouTubeで映像も観ていたのだけれど、実際に目にした光景は想像を超えていた。まるで爆撃にあって破壊しつくされた街のように見えた。

 今回、女川町でのライブが実現することになったのは、中川君、克ちゃん等が先月の4月に女川を訪れた際、瓦礫の中に挟まれているターンテーブルを見つけ て、そのことをツイッターでつぶやいたことがきっかけになっている。後に、そのターンテーブルの持ち主が、蒲鉾本舗高政という蒲鉾屋さんの若旦那、高橋君 のものらしいことが判明。同時に、高橋君がソウルフワラーユニオンのファンだったことも判明。こうしてツイッターを通して、高橋君と中川君が繋がり、今回 の女川でのライブが決まったそうだ。
 ただ、高橋君はライブ当日になってもまだ、そのターンテーブルを見つけ出せずにいた。それで、この日、中川君の提案で、本番前に、高橋君等と一緒にターンテーブルを探しに行くことにする。
 そのターンテーブルは、流された高橋君の自宅からは随分離れた海沿いの場所で見つかった。それは、地盤沈下して冠水した水面から顔を出した状態でさらさ れていた。高橋君は、見つけ出したターンテーブルを海水の中から取り出して、しばらく抱きしめ続けた。

 女川総合体育館前でのライブには、老若男女が集まり、笑顔に溢れた、素敵な共鳴空間になった。盛り上がったなあ。
 ライブ後、避難所で暮らす何人もの人達から声をかけられた。皆が感謝の気持ちを伝えてくれて、強く手を握りしめてくれた。熱いものがこみあげてきた。
 ライブ後に中川君がオレのそばに来て、こう言った。
 「音楽ってすごいな」
 自分も同じことを思っていた。
 この日の唯一の心残りは、会場で蒲鉾本舗高政(http://www.takamasa.net/)よりふるまわれた焼きたて蒲鉾が品切れで食べれなかったこと。全国の皆さん、高政の蒲鉾はホント美味しいですよ。

2011年5月17日火曜日

5/17(火)石巻にて満月の夜ーあまりにも濃密な1日

 昼の12時頃に旅館を出て、この日の演奏場所である石巻市へ向かう。石巻はツアーで何度も訪れたことのある街だった。市内に入ってまず、高台にある日和公園まで行き、海沿いの街を一望した。
 津波に飲まれた海沿いの街は、ほとんどその原型をとどめていないように見えた。瓦礫を撤去する重機の音ばかりが虚しく響いて聴こえた。
 その後、公園から街へ下り、石巻港の辺りで下車して、廃墟となった街を見渡した。自分が生きている間に日本で、こんな光景を目にするとは思っていなかった。

 最初、その場の光景を写真に収めることに、少しためらいを感じた。それでもデジカメとスマートフォンの両方でシャッターを切り、その光景をツイッターに上げた。写真をツイッターにアップするときは、写真におさめる時以上にためらいを感じた。 
 その時のつぶやきで、自分は目にした光景を「瓦礫の街」と表現した。しばらくして、自分のつぶやきを受け、一人のフォロワーの方から返信がきた。「震災 前まで人々の営み、暮らしが存在していたその場所を『瓦礫の街』という言葉で片付けてほしくない」といった内容だった。返信をくれたのは仙台在住の方だっ た。その人の他のつぶやきを見ると、自分が写真をアップしたことに対しても批判的だった。こういう反応は、ある程度予測していたとはいえ、やはり考えさせ られた。「仙台在住ということは、本人も被災され、身内や知人の中で亡くなられた方もいたのかもしれない」などと想像した。
 このブログを更新するにあたっても、被災した街の写真をアップするかどうか、逡巡した。それでも自分は被災地での写真を掲載することにした。このブログ を見てくれている人達に、現地の状況が少しでも伝わればと思う(自分が充分に知っているわけではないけれど)。
 そしてこのブログを通じて、自分が被災地で感じた希望も伝えられたと思う。
 
 この日のライブ会場「ラストラーダ」は、ツアーで何度も訪れた場所だった。まず、オーナーの相澤さん夫妻と再会できたことが嬉しかった。
 お店に電気がきたのはライブ前日で、お店が入っているビルの1階には数週間前まで、津波で流されてきた船が突き刺さったままだったそう。
 ビル横の空き地は、自衛隊によって、仮設風呂とトイレが設置されていて、地域の人達のなごみの場になっているようだった。
 この夜のライブはラストラーダにとって、震災後の初ライブ、お店の再オープンを記念したイベントだった。入場は無料で、飲食持ち込みも可という、通常と は違った形式。地元の人達を中心に、世代も幅広く、たくさんの人達が集まって、会場は熱気に包まれた。
 3.11以降、被災地での初ライブということで、自分だけでなく中川君、克ちゃんも、最初は少し固さがあったように思うけれど、会場のかしこまらない雑 多で猥雑な空気が、3人をどんどん解放させていったように思う。愛のあるヤジやツッコミが結多くて、ちょっと大阪の乗りに近い感じ。ミラーボールもよく 回ってくれたなあ。
 思いがけずボガンボスの岡地さんが、福島からライブを観に来てくれたので、アンコールで飛び入りしてもらい、「魚ごっこ」と「トンネル抜けて」をセッション。
 後で、聞いたのだけれど、開演前から終演後まで、客席のあちこちで再会の挨拶が交わされていたそうだ。自分もライブ後、石巻のお寺の住職Hさんや、レゲ エバーのマスターSさん等、地元の人達数人と嬉しい再会。ロフトプロジェクトのスタッフで、ピースボートにも所属して石巻でボランティア活動を続け、今回 のライブ実現に尽力してくれた上野くん、地元でボランティア活動を続けるその他のピースボードの若いスタッフ達、女川の蒲鉾屋高政の高橋君ら、この日は新 しい出会いも多数。
 ライブ後、店の外に出たら、実に美しい満月が夜空に浮かび上がって、目の前の北上川の水面を照らしていた。街から灯が消えたせいで、余計に月の明るさが際立って見えた。宴の後、多くの人達が満月に見とれていた。
 あまりにも濃密な1日だった。

2011年5月16日月曜日

5/16(月)リハサール後、東北へ

 ソウルフラワーユニオンの中川敬、高木克と横浜のスタジオに集合して、明日からの3日間、被災地の避難所等を回るライブのためのリハーサル。
 避難所で暮らす高齢者の人達にも楽しんでもらえるよう、民謡と古い流行歌、ご当地ソングが選曲の中心。
 それぞれの使用楽器は、克ちゃんがアコースティックギター、中川君は三線とアコースティックギター、自分は軽量のスピーカー付きデジタルピアノとアコー ディオン。普段とは違うレパートリーが多数で、めったに使用することのないアコーディオンを多用することもあり、限られた時間の中で準備するのが、結構大 変だった。
 リハーサル後は東京へ向かい、被災地に同行するメンバーと合流。2台の車で、これから3日間の宿泊先である宮城県松島へ向かう。3人以外のメンバーは、 カメラマンの石田昌隆さん、明星の副編集長、吉田孝弘くん、ソウルフラワーユニオンのローディー、阿部恭穀くん、ソウルフラワーユニオンのネットマガジン 「魂花時報」の編集長、大熊遼くん。
 日付も変わって午前2時頃、松島に到着。宿を予約してくれた吉田君の話によると、今回、石巻近くで営業している宿は、満室のところがほとんどで、宿泊先を探すのが一苦労だったそう。自分達が宿泊した旅館も震災支援で訪れた人達で、満席状態だった。
 チェックインをすませて、同部屋の石田さん、吉田君、阿部ちゃんらと、ビールを飲みながら、しばらく熱い議論を交わした後に消灯。自分は結局朝まで眠ることができなかった。やはり気が張っていたようだ。

2011年5月14日土曜日

5/14(土)祈りに満ちた音楽

渋谷 gee-ge 「ふるんナイトvol.12」
【出演】杉瀬陽子/Saigenji/リクオ/Featuring 橋本歩(cello)
 ふるんナイト初参加。この日の共演者は、互いリスペクトし合う大好きなミュージシャンばかり。みな、素晴らしいステージだった。
 杉瀬陽子ちゃんはいよいよ来月デビューソロアルバムが発売になる。彼女は、ここ数年出会った中で、最も印象に残ったシンガーソングライターの一人。たく さんの人に届いてほしいなあ。彼女の歌を聴くと、あの世とこの世がつながっているような印象を受け、心というよりも魂が揺さぶられる。
 Saigenjiの音楽に歩ちゃんのチェロが加わると、哀愁がぐっと深まる感じ。この日は、Saigenjiのあらたな魅力に気付かされた気がした。
 自分と歩ちゃんのデュオライブは久し振り。彼女が弓をひくと空気の振動、響きが伝わり、まるで音が見えるような気がした。とてもインスパイアされた。
 打ち合わせで渋谷に来ていたハシケンが会場に遊びに来てくれたので、飛び入りしてもらい「ソウル」を一緒に歌う。すごく良かった。
 出演者がステージに揃ってのアンコールセッションも印象に残った。出演者それぞれの音楽が、祈りに満ちていた。
 自分の中で何かが変わりつつあることを、この日も実感した。

2011年5月8日日曜日

5/8(日)ツアーの締めは藤沢で

神奈川県藤沢市 太陽ぬ荘(てぃーだぬそう)スタジオロビー
【出演】リクオ/キム・ウリョン(元cutman-booche)
 ゴールデンウイークの締めは自分が暮らす藤沢でのライブ。日中は汗ばむ陽気。8日振りに帰ってきたら、季節が変わっていた感じ。
 先月末に風邪をひいて、大した症状ではなかったのだけれど、なかなか治りきらず、ツアー中は体調が万全ではなかった。昨日の大阪でやっと治った感じ。こんなに時間がかかるのはめずらしい。それでも、ステージ上で気力が途切れることがなかった。
 この日のライブは、スタジオのロビーがライブ会場。太陽ぬ荘は、自分もよくリハーサル等で使わせてもらっている音楽スタジオ。ライブも何度もやらせてもらっていてスタッフとも馴染み。
 この日のライブの企画発案は、こちらに越して来てからずっとお世話になっているミュージックバー、サウサリートのジョージさん。藤沢のいいところの1つ は、お店同士で横のつながりがあるところ。お店同士が連携してこういう企画ができるのがいいと思う。この日は、馴染みのバーや居酒屋のマスターが何人も、 お客さんとして会場に駆けつけてくれた。客席に知人が多いのは、藤沢ならでは。
 共演者のウリョン君とは、昨年末の20周年イベント以来の共演。彼のステージには腰越在住のベーシスト、かっちゃんと、藤沢のバー、ケインズでで何度が セッションしたことのあるペダルスティール奏者の宮下君がサポートで参加。演奏者同士の気持ちが通じ合っていて、いいアンサンブルだった。
 ウリョン君の音楽は、洗練されたリズムとアーシーなサウンド、少し泥臭い情感とのバランスが独特。彼の持ってる嗜好、世界観が、さらにどんな融合を果たしてゆくのかが楽しみ。
 自分のステージは、いつも以上にリラックスモード。ツアーの締めにふさわしい盛り上がりになった。藤沢でライブをする時の会場の空気は、いつも開放的で 素晴らしい。アンコールでのウリョン君とのセッションも楽しかったなあ。きっと彼も藤沢を気に入ってくれたと思う。
 打ち上げはサウサリートで。こちらも多いに盛り上がる。
 藤沢に越してきて、もう3年。この街での暮らしが気に入っている。

2011年5月7日土曜日

「音楽ライブ」

「音楽ライブ」
【場所】和歌山県田辺市 アタゴヤマ(カッチャンタウン) 
【出演】リクオ/有山じゅんじ/加川良/シバ/金森孝介/グラスホッパー/光玄/薮下将人
 田辺の街との縁は長く、大学を卒業した直後の22年前、有山じゅんじさんのツアーに同行させてもらって訪れたのが最初だった。この日のライブの主催者の一人であるためさんとは、その当時からの付き合い。
 ライブ会場のかっちゃんたうんはアタゴヤマにあるかっちゃんの別宅の敷地内。かっちゃんは中学生の頃に加川良さんに出会って音楽に目覚め、長年このよう なライブイベントの企画を夢見てきたのだそうだ。このイベントの出演者は、その手のファンにとってはたまらないメンバーだったと思う。
 この日の田辺は日差しが強く、初夏の陽気で、絶好の野外イベント日和だった。陽が沈む頃には、蛙が一斉に鳴き出し、空には奇麗な三日月が見えた。
 蛙と一緒にセッションしたのは始めてかもしれない。夜空を眺めながら、有山さんと一緒に演らせてもらった「ウーララ」は、ほんと気持ちよかったなあ。
 加川良さんのステージを観るのは久し振りだった。素晴らしい集中力。とても60半ばとは思えないコンディション。感服。

2011年5月6日金曜日

5/6(金)マーサベストライブ

大阪 martha(dinning cafe+goods)
 大阪に向かう前に、昨夜のライブを主催してくれた大学の後輩、多田と一緒に、山手にあるカフェ&ギャラリー、AIR CAFEとパン屋さんのネコノテパンを訪ねる。AIR CAFEのミカミ君からは、山手の空き家再生プロジェクト(http://www.onomichisaisei.com/index.php)の話など を聞かせてもらう。プロジェクトは順調に進んでいるようだった。
 尾道は、他の街から越して来る若者が多く、古いものと新しいものが同居していて、歴史の連続性が感じられる。これからの街作りの1つの参考になるのでは ないかと思う。この街に来るといつも、経済至上主義の発想から遠く距離を置いて、新しい暮らしと街作りを模索している人達との出会いがある。考えてみれ ば、自分は日本各地で、そういう発想を持った人達に出会ってきたのだった。
 心の風通しを良くして、大阪へ向かう。この日もいい天気。
 自分にとってマーサは最も縁の深いお店の1つ。マーサのオーナー片平とは学生時代に一緒にバンドをやっていた仲で、奥さんのこゆきちゃんとも学生時代からの付き合い。
 8年前にマーサがオープンしたときは、仲間が音楽に関わるお店を始めてくれたことが嬉しかった反面、大丈夫かなと心配もした。けれど、今や多くのツアー ミュージシャンから愛され、大阪でも人気のカフェに成長。3年前には、マーサの向かいに、姉妹店のバー、ロージーもオープン。
 片平はもう一軒お店を出したいそうで、その時のお店の名前は「ロンリー」と決めているのだそうだ。わかる人はわかると思うけれど、3店ともトム.ウエイツの曲名なのだ。
 「ロンリー」では自分がマスターになって、お客さんと1対1で飲みたいのだそう。お店の規模をどんどん小さくして、フェイス.トゥ.フェイスを目指してゆくという発想が面白いし、片平らしくていいなと思う。
 この日のライブでは、3.11以降の自分の音楽に対する姿勢、変化をごく自然に表現できた気がする。その変化を、まだうまく言葉にはできないのだけれ ど、行間に想いを込める度合いが深まったことは確かだと思う。自分の中で祈りの気持ちが増したのかもしれない。
 ライブを終えた後、とても充実感があった。お世辞や上辺の言葉を嫌う片平がライブ後に、この日のライブのことをとてもよかったと言ってくれたのが嬉しかった。

2011年5月5日木曜日

5/5(木) 尾道発宇宙

広島県尾道市 妙宣寺(尾道ロープウェー乗り場そば )
【オープニングアクト】KEIKI
 日本全国を回っていて、尾道は特に好きな街の1つだ。もともと港町が好きなのだけれど、尾道という街には特別な風通しの良さと懐かしさを感じる。
 妙宣寺の本堂でのライブは、いつも特別なエネルギーを受け取る。ちょっと大げさに言うと、ステージ上で自分が宇宙とつながっているような気分になるのだ。
 尾道のライブで毎回オープニングで歌ってくれる多田(KEIKI)は、大学の軽音の後輩で、ライブの主催者でもある。彼の演奏を聴くのも、尾道に来る時の楽しみの1つ。
 今回始めて聴いた新曲もよかったな。暮らしの中から生まれる、ほんとうに風通しの良い音楽だと思う。
 リハーサル後に山手に散歩に出て、石段を昇ったら息が切れた。ツアーの疲れがたまっているようだ。
 打ち上げでは、妙宣寺の住職加藤さん等から、先日、石巻と女川町にボランティアに言ってきたときの話を聞かせてもらう。そのときの写真や動画も見せても らった。加藤さんが「被災地には地獄と天国の両方が存在していた」と話していたのが印象に残った。10日後に確かに行く予定。

2011年5月4日水曜日

5/4(水)祈りは伝わる

祝春一番2011 40周年記念(4/30、5/1、5/3~5/5開催)
【場所】大阪 服部緑地野外音楽堂
【出演】リクオ/有山じゅんじ(vo,g)/石田長生(vo,g)/いとうたかお(vo,g)/小川美潮(vo)・スプラゥトゥラプス/木村充揮 (vo,g)withMOON CALL梅津和時(Sax)小山彰太(d)井野信義(wb)阿部篤志(pf)/坂田明(sax)Unit/笑福亭福笑/豊田勇造(vo,g)&YUZO BAND/ヤスムロコウイチ(vo,g)etc.
 この16年間、ゴールデンウィークの時期は、大阪で開催される野外イベント、春一番に参加するのがずっと恒例になっている。
 出演者の大半は馴染みの人達ばかり。楽屋では、例年のように方々で、再会の挨拶が交わされていた。ただ今年は、その風景の中に欠かせなかった阿部さんの姿がない。
 フータさんと共に春一番を引っ張ってきた阿部さんは、昨年の11月に亡くなられた。イベンター、マネージャー、プロデューサー、ミュージシャン等さまざ なま顔を持っていた阿部さんは、何をするにしても、お金のニオイからは距離を置き、自分の感性を信じ、損得抜きで人を愛し、愛され、街に生き続けた人だっ た。自然、今年の春一番は阿部さん追悼の色合いが強くなった。
 会場にはほぼ満員のお客さんが集まった。会場全体が終始「これぞ春一番!これぞ大阪!」と言いたくなるような、ステージと客席の距離のない、土着的で、 ゆるくて、ベタで、明るくて、自由な空気に包まれていた。それは阿部さんがフータさん達と一緒に作り出した世界だった。
 自分のステージは、1曲ソロで歌った後、梅津さんにサックスで参加してもらった。ステージでは終始、どこか穏やかな気持ちだった。心は充分に開かれてい た。客席を眺め、天に向かって歌った。今迄の自分の春一番のステージの中で、一番の盛り上がりだったかもしれない。
 祈りは伝わる。そう実感できたステージだった。

2011年5月2日月曜日

5/2(月)敦賀にて原発の話をする

福井 敦賀市 酒菜楽アリーナ
 金沢から福井県敦賀市へ。
 この日のライブ会場であるアリーナのマスターの野口さんから、リハーサル前に原発の話を色々と聞かせてもらう。
 福井県が15基もの原子力発電所を抱えていることを、日本のどれくらいの人達が知っているのだろう。中でも、敦賀にある日本原子力発電の1号機は、日本最古の軽水炉で、安全性を疑問視する声の特に多い原発である。
 野口さんの話によると、街で働く約50%の人達が原発に関わる仕事に就いているのだそうだ。原発との関わりを抜きにして、この街での暮らしてゆくことは 難しい。それでも、野口さんは、福島原発の事故をきっかけに、「この街の中から原発に異を唱える者が出てこなければいけない」との思いを強くしているそう だ。

 リハーサルを終えた後、被災地である相馬の知人と電話で話をした。山口洋の呼びかけで集められた募金で購入し、届けられたロシア製のガイガーカウンター がとても役に立っているとのこと。今日の相馬の放射線量は高めだそう。一般市民がガイガーカウンターを必要とする時代がくるとは。

 この夜のライブには、お店の常連さんが多く集まってくれて、とてもいい盛り上がりになった。
 この日は清志郎さんの命日。気持ちを込めて歌った。

 打ち上げにもお店の常連さん達が多く残って、賑やかな宴になった。楽しい話もたくさんしたけれど、宴も半ばを過ぎたあたりから、話題はまた原発のことが中心になった。
 話を聞いていて、今回の福島原発の事故が、原発と共に暮らす敦賀の人達に与えたショックと不安の大きさを感じた。小学校の頃から学校の授業で原発の安全 性を教えられてきたという30代の男性は、今回の原発事故で、信じ込まされていたことが嘘だった、裏切られたとの思いを強く持ったそう。
 この日は、敦賀原発2号機で放射線濃度が上昇との報道も。

 「今日のライブ、いろんなことを忘れて久し振りに心から楽しめました」
 ライブ後にお客さんの一人から受け取ったこの言葉が、とても心に響いた。

 ビン.ラディン、拘束ではなく、殺害。アメリカという国家の恐ろしさをあらためて感じた。

2011年5月1日日曜日

5/1(日)もっきりや40周年

 もっきりやは今年で40周年を迎える。40年間、お店を続けてきた平賀さんは、今がお店をやっていて一番面白いそうだ。素晴らしい。
 自分は、もっきりやで演奏するのが大好きだ。この場所には音楽の神サンが住み着いているんじゃないかと思う。何回演奏しても飽きない。この夜も、演奏を 続けるうちにどんどん集中力が高まって、インスピレーションが多いに湧いた。ああそうか、こんな風に演奏して歌えばいいんだと思った。新たな発見をしたよ うな気分。この感覚を忘れないでいたいな。
 もっきりやのグランドピアノは、ほんとに鳴りが良い。もっきりやを訪れるたくさんのピアニスト達から愛されているから、よけいに音に艶が出る。けれど、彼女はきっとオレのことが一番好きなんじゃないかと思う。
 もっきりや40周年、ほんまおめでとうございます。これからもよろしくです。