2012年7月31日火曜日

人もコントロール不能な「自然」である

7月半ば、ケイヤン(ウルフルケイスケ)との充実した2人ツアーを終え、帰宅してからの数日間は、何もやる気が起こらなかった。嫌なことがあったわけでもないのに、気分が鬱々として、前向きな考えがちっとも浮かんでこないのだ。
 これは、長年続けているツアー暮らしの中で、程度の差こそあれ、毎度のように繰り返されている症状である。それで、ある日の朝目が覚めたら、特に何かい いことがあったわけでもないのに、すっと心に晴れ間がのぞいていて、何となく立ち直る、というのがよくあるパターン。身体も心も気紛れなところがあって、 どれだけ経験を積み重ねても、完全にコントロールすることができない。
 それにしても、今回は立ち直りにいつもより時間を要した。心身の疲れに気づかないまま、長時間スイッチをオンにし過ぎていたようだ。調子に乗り過ぎたんやな。
 気分がロウの時に「焦り」は禁物だ。そうなってしまったら、仕方がないと、なるべく諦めてしまうよう心掛けている。自分の身体も「自然」であり、「自 然」を完全にコントロールすることなど不可能なのだ。身体と心はつながっているのだから、身体がくたびれたら、心もくたびれるのが当然。抗うばかりではな く、「自然」に身を委ねることも大切だ。そうすることで、思いがけないギフトを受け取ることもある。
 あまりきついスケジュールを組んで、自身を管理しようとし過ぎないことだ。それは、「自然」に対する人間の傲慢さのあらわれと言えるかもしれない。もっと「ゆるさ」を保ってやろう。でも、やりたいことが色々とあるんやなあ。欲深い人間だと思う。

 「『自然』を完全にコントロールすることなど不可能である」という認識がもっと一般的になって、社会のシステムに反影されるようになれば、世の中は随分 と変化するだろう。そういう認識の元で、原子力発電所は存在しえないはずだ。逆に言えば、自分達の「自然」に対すると認識と姿勢が、原子力発電所を生み出 し、それらを維持させる一因になっているとも言えるんじゃないだろうか。やはり、他者に対してばかり変化を求めても、世の中は変わらない。自身も変わらな きゃ。
 言うは易く行うは難し。自分を変えるって、そんなすぐできることとちゃうわなあ。


 今日は自宅近くの海岸で、ゆるく夕暮れ時を過ごした。自分にとっては最高のチャージ場所。そのときの写真を添付します。お裾分けになれば。
ー2012年7月31日


2012年7月28日土曜日

デモに参加する人、しない人ー補完し合う関係

「脱原発のデモに行く人に対して、デモに行かないというスタンスをとる人は、デモに行くという行為と対立しているのではなく、デモに行くという行為によって削ぎ取られるある部分を補完している……と考えるのです。」
作家の田口ランディーさんのブログから引用させてもらった言葉だ。

「反発とか、批判とか、憎しみとか、怒りとかは、その対象を大きくしてしまうだけのような気がして、そういうやり方でなく、静かに、愛の中で、良い方向に導くことができないものかなあ、と、ここのところ考えている。」
これはfacebook上で見つけた、ある知人女性の言葉だ。

 自分をデモ参加に駆り立てた感情の1つに「怒り」があったことは間違いない。大飯原発の再稼働を受けて、それは、しごくまっとうな感情だったと今も思っ ている。けれど、彼女が危惧するように、「怒りや憎しみが、その対象を大きくしてしまう」ことも確かなのだ。
 「怒り」や「憎しみ」といった感情が、人間から完全に消え去ることはないだろう。だから大切なのは、「自身がそれらの感情にどう向き合い、いかに行動するか」なのだと思う。「怒り」にまかせた言行がもたらすものを自覚するべきだ。
 どんな状況においても、「静かな愛」を持ち続けていたいと思う。けれど、自分も含め、そこまでできた人間はそうそういない。だからこそ、田口ランディーさんが言う「補完し合う関係」というイメージが大切になってくるように思う。
 facebookで先の文章を掲載した女性の「静かな愛」が、正義感にかられ、怒りに震えて行動することによって失ってしまう何かを、補完してくれている。自分はそのように考えながら、明日の脱原発国会大包囲のデモにも参加しようと思う。
ー2012年7月28日(土)

※添付した写真は、大飯原発前での抗議集会に参加した女性が撮影してfacebookに掲載したものを、使用させてもらいました。

2012年7月24日火曜日

1枚のデモ写真ー「祈り」の感性

添付した写真は、7月6日に行われた官邸前抗議集会で撮影されたものだそうだ。フリーランスのフォトグラファー佐藤哲郎 氏が撮影し、facebookに掲載していたのを見て、感銘を受け、このブログに添付させてもらった。できれば写真をクリックして大きな画像で見てほし い。

 自分はこの前の週に、同じ官邸前で行われていたデモ集会に参加していた。まだ集会場所が警察によっていくつかに分断される前だったので、デモの全容を歩 いて確かめることができた。官邸前の車道は開放され、抗議の人であふれかえり、熱気が充満していた。何か祝祭空間の只中いるような感覚もあり、殺伐とした 空気はあまり感じられなかった。今行われているデモが、イデオロギーを超えて、多種多様な一般市民が参加する、非暴力のデモであることを、はっきりと実感 したことを覚えている。参加者の中に女性が多かったことも印象に残った。

 この日、夕方からのデモに参加する前に、若松孝二が監督の映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を横浜で見た。映画の主人公、三島由紀夫は じめ、盾の会や全共闘の若者達、自衛官他、登場人物は、三島由紀夫の妻、三島瑤子をのぞけば、全員が男性であった。映画の中で三島瑤子の存在はひどく浮い ていて、男達の中で蚊帳の外という印象を受けた。左であれ右であれ、当時の活動家のほとんどは男性で、その傾向は今もそんなには変わりがないのだろう。 70年安保当時のデモや集会を組織し、参加していた大半も男性であったと認識している。
 理不尽な出来事に遭遇したとき、男性は、「怒り」の感情に支配され、行動する傾向が、女性よりも強いと思う。この日観た映画の登場人物の多くも常に怒り、憤っていた。これまでの社会運動には、そのような男性心理が大きく作用していたように思う。
 自分はこれまで、デモとは「怒り」をぶつける場であり、場合によっては実力行使も辞さない、ある程度の暴力を肯定する場であるという印象を持っていた。 けれど官邸前の抗議集会に何度か参加してゆく中で、その認識が変わっていった。添付させてもらった写真が、官邸前でのデモのありようの一端を象徴している ように思う。
 女性をはじめ、多様な人達が参加することによって、デモに「祈り」の感性が加わることは、とても大きな変化だと思う。デモという主張のあり方が、かえっ て2項対立を深め、憎しみを増幅させてゆく危険を孕んでいることは否めない。しかし、そこに「祈り」の感性が加わることで、社会運動にあらたな可能性が生 まれるように思うのだ。そのような運動には、即効性を求めすぎるべきではない。長く続けることに意味を見いだすべきだと思う。
ー2012年7月24日(火)