2013年11月2日土曜日

父西川長夫の死に寄せて

10月28日午後5時22分、京都の自宅にて静かに息をひきとり、79年の生涯を終えました。葬儀は、本人の遺志により、10月30日に密葬にてとりおこなわせてもらいました。
父は昨年の11月6日に胆管癌との診断を受けて、市内の病院に緊急入院しました。その後、幸いにも病状が落ち着き、今年の1月に退院し、自宅療養を続けてきました。
学者であった父は、自宅療養期間中も新しい著作への意欲を失うことなく、その準備を進め、多くの方々に支えられながら、最後迄研究者としてあり続けることができました。
父の研究はフランス文学から始まり、戦後日本文学、国民国家論と多岐に渡りますが、近年は、自身の朝鮮からの引き揚げ体験を基に搾取モデルとしての「植民地」をキーワードにして、文化、社会を批評してきました。
僕自身は、ミュージシャンという父とは畑の違う道を選び、意識的にも無意識的にも親とは違った価値観、生き方を模索してきた気がしますが、特に3.11以 降は、病床の父との会話や、その著作にふれることで、父の姿勢、考えに、以前よりも理解を寄せるようになりました。
3.11以降、僕はソウルフラワーユニオンの中川敬君らと伴に被災地各地の避難所や仮設住宅をボランティアで演奏して回りましたが、父と母はそのときの様 子を綴った僕のブログを読んでいて、震災から約1年後に2人で被災地を訪れ、僕が回った同じ場所を見て回りました。そのときのことが、今年の5月に出版さ れた父の最後の著書「植民地主義の時代を生きて」の中に書かれています。
著書の13章「二つの廃墟について」、14章「東日本大震災が明らかにしたこと」の中で父は、戦後日本の原発体制を新植民地主義の典型として言及しています。その中のほんの一部分を抜粋させてもらいます。

「日本の原発地図を一瞥すれば明らかなように、五十四基の原発が置かれているのは、列島の周辺部であり、その多くは巨大地震や大津波が予想されている地域 である。どうしてそういうことが起こるのか。現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な 定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと 日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側 が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」

 「二つの廃墟。戦後はようやく一つのサイクルを終えたと思う。破局を迎えた「長い戦後」の全課程が厳しく再検討に付されなければならない。保守と革新、 あるいは右翼と左翼を問わず、長い戦後を支配したイデオロギーは「復興」であった。「復興イデオロギー」の内実は、経済成長(開発と消費)とナショナリズ ム(愛国心と家族愛)である。それは結局、資本と国家の論理に従うことを意味するだろう。」

「私の結論は一口で言ってしまえば、グローバル化は新しい形態をまとった第二の植民地主義(植民地なき植民地主義)である、というものです。~だが、 3.11の衝撃によって、私はより重要な本質的な問題を見落としていたいことに気付かされました、それはグローバル化が賭していたものは、石炭や石油に代 わる原子力エネルギー、すなわち原爆/原発体制の主導権であったということです。冷戦期にはじまったこの主導権争いは、社会主義圏の崩壊によってアメリカ の勝利に終わる。グローバル化がアメリカ化となるのはそのときからです。アメリカ化とはアメリカの資本と一体化したアメリカの世界政策(アメリカ主導によ る世界の原爆/原発体制化)の一環としてその枠内ですべてが進行するということです。つまりアメリカの支配と搾取の下にあるということです。韓国や台湾の 原発も同様で、決して独立したものではありません。」
ー『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より

最近の国内情勢、社会の空気を察すると、父の言うように「戦後はようやく一つのサイクルを終えた」とは必ずしも思えないし(終えるべきだと思っています が)、父のすべての考えに同意するわけでもありませんが、父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆ くような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交 流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれま せん。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな 出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考 え、生き方も確認してゆきたいと思います。
自分の基本は、曲を書いて、ライブで弾けて、打ち上げでバカをやることだと思っているのですが、3.11以降は、時には社会にコミットする発言も必要なの ではとの思いが強くなりました。でも、そういう発言をすると、言葉がどんどんかた苦しくなって、嫌な空気を呼び寄せてしまい、気持ちまで硬直してゆくよう な気がして、正直、今もそのバランスの取り方に悩み続けています。以前よりも父の言葉や姿勢に共感を寄せるようになったのは、こういう自分自身の変化も関 係していると思います。
父の言葉を、自分なりにもっとわかりやすく翻訳できないものか、歌やライブや活動スタイルの中でも、頭でっかちになり過ぎず、五感をバランスよく使いなが ら、ユーモアを忘れずに、情をもって、柔らかく伝えられたらなあと思っています。でも、このブログでは、これからも時々、かたい話もすると思うので、無理 なくお付き合い下さい。
多くの研究者、仲間の皆さんに支えられ、家族に見守られ、父は幸せな最期を迎えることができたのではないかと思います。父に関わり続けてくれた皆さんのご尽力、ご協力に心から感謝します。ありがとうございました。
 ー2013年11月2日(土)

2013年8月25日日曜日

AZUMIさんが藤沢にやってきた


ー孤独を「経て」最高の泣き笑いライブ 昨夜は、藤沢のバー「ケインズ」で、大阪からやってきたAZUMIさんのギター弾き語りライブを観た。AZUMIさんは、自分にとってのリアルブルーズマ ン。出会ったのはオレが学生の頃だから、随分長い付き合いになる。自分が大阪を離れて17年。東京暮らしを経て、藤沢に越してきて5年。今、暮らしている 街の馴染みのお店にAZUMIさんが来てくれて、この街で知り合った人達と一緒に、そのライブを観れることが嬉しかった。
久し振りにAZUMIさんのライブをみて、やられた。ホンマに。最高の泣き笑いの夜だった。
すべての感情を引き受けた音楽。混沌、矛盾、醜さに向き合うことで生まれる震えるような説得力。ドロドロの感情を経た透明感。AZUMIさんの表現は、と にかく「経て」を積み重ねて、積み重ねて、ここにある。いつでもリアルタイム。進行形の音楽なのだ。
出会った頃からずっと、AZUMIさんには孤独の影がつきまとう。あまりにも敏感な自分のアンテナに振り回され続けている人なのかもしれない。オフステー ジでは、いつもどこか所在無さげ。1人が嫌いなわけじゃないのに、優しくされ過ぎると、どうしていいかわからない、逃げ出したくなってしまう。そんな不器 用な人なのだ。
AZUMIさんは、孤独にずっと向き合い続けてきた人なんだと思う。その姿勢は音楽に昇華されている。この夜のステージを見ていて、AZUMIさんは、孤独を「経て」ゆくことで、すべに通じるような水脈に行き着いたような気がした。
心の奥底での共感は魂の浄化をうながす。結構飲んだわりに、今朝の目覚めが清々しかったのは、AZUMIさんの音楽に深く共感して、泣き笑いさせてもらったおかげだと思う。
-2013年8月25日

2013年8月23日金曜日

プロジェクトFUKUSHIMA!イベント「Hello!!816(廃炉)」に参加して

ー2年振りのラストワルツ 先日、ミュージシャンとしても人としても尊敬する遠藤ミチロウさんからお誘いを受け、福島県郡山で開催されたプロジェクトFUKUSHIMA!イベント 「Hello!!816(廃炉)」に、脱原発を希望する1人として参加させてもらいました。イベントでは、郡山市街のいくつかの会場で同時並行にライブが 行われ、自分はラストワルツのステージに立たせてもらいました。ラストワルツは、15年前にツアーで訪れて以来、ずっと縁が続いているお店なんです。
今から約2年前、福島第一原発の事故から5ヶ月後にラストワルツを訪れました。その時の訪問は、プライベートなものでした。郡山には多量の放射能が降り注 ぎ、多くの人が街を出てゆく中、郡山に残ることを選択したラストワルツのマスター和泉さんら地元の知人達と再会し、酒を酌み交わすことが目的で、ツアーの 途中に、ラストワルツを訪れたんです。ある程度は予想していたのですが、お店の扉を開けたら、やっぱり楽器とマイクが用意されていて、急遽小一時間程のラ イブをやらせてもらいました。
ライブを終えた後の飲み会では、地元の人達からヘビーな話を色々と聞かされました。放射能が地域の人間関係を残酷に破壊し、人々を孤立させていることを実 感させられて、ショックだったのを覚えています。ただ、この日自分が郡山にやって来た一番の目的は、皆と楽しく飲むことだったので、最後は、無理矢理にで もという気持ちでどんちゃん騒ぎに持っていって、夜更けまでさんざんバカをやりました。
再会を誓い、別れを惜しんでの帰り際、マスターの和泉さんが、わざわざ表までオレを見送ってくれました。そのとき、普段は寡黙で控え目な和泉さんから突然、はっきりとした口調で、こう言われました。
「リクオ、No more Fukusimaの曲を書いて」
何とも言えない気持ちになりました。

あれから2年。郡山市街の線量は、まだ通常の値をはるかに超えています。この数値が、人体にどれ程の影響を及ぼすのか、オレにはよくわかりません。ただ、 原発事故が郡山で暮らす人々の生活を壊し、共同体の人間関係を壊し、心に深い傷を与えていることは確かです。その傷は”経済復興”だけで消せるものではあ りません。
この日、「Hello!!816(廃炉)」イベント終了後、打ち上げが始まる迄の時間を利用して、再びラストワルツを訪れ、しばらくカウンターで飲ませて もらいました。カウンター越しの和泉さんとは、たいした会話を交わすこともなく、程なくして別会場での打ち上げに参加する時間が来てしまいました。和泉さ んは、2年前と同じように、表までオレを見送ってくれました。
そして帰り際に、こう言ってくれました。
「原発の歌(『アリガトウ サヨナラ 原子力発電所』)よかった。ありがとね。」
必ずまたラストワルツに戻ってきます。
ー2013年8月23日

2013年8月20日火曜日

宮崎駿監督「風立ちぬ」を観て【後編】

ー宮崎駿が描く「美しい日本」 自分がこの映画に惹かれた1つに、失われてゆく列島の風景が描かれている点が上げられます。映画の中では、田園風景をはじめとした緑の多い日本の風土が実 に生き生きと美しく描かれています(それらとは対照をなすように、当時の整備されていない貧しい町の景色も、映画の中で描かれています)。
宮崎駿は、スタジオジブリが毎月刊行している小冊子『熱風』の7月号「憲法改正特集」の中で、30代の頃、ヨーロッパを旅して日本に帰ってきて、日本の風 土が素晴らしいものだという認識を持つようになったと語っています。自分がこの言葉に共感するのは、自分自身もミュージシャンとして日本各地をツアーして 回る生活を長く続けることで、恐らく宮崎駿と共通する感覚を持つに至ったからです。
自分はツアー生活の中で、日本各地の風土の美しさだけでなく、その多様性にも魅了されるようになりました。各地を細かくツアーをしていると、同じ都道府県 内であっても、風景、気候、食事、人の気質、方言、時間の流れ等が様々に変化してゆくのを実感します。様々な風土にふれると、五感が解放され、それらのバ ランスがよくなってゆく気がします。自分のツアー暮らしは、五感を使って「美しい日本」を発見する日々であるとも言えます。そして、その「美しさ」は、実 は「日本」という枠では一括りにできない実に様々な姿を持っていました。
それは人においても同様でした。10人10色、さまざまなバックボーンの中でホンマいろんな人が各地におるんやなあという実感が、自分の心の風通しをよくしてくれました。
自分がツアー暮らしの中で思いを深めた「美しい日本」とは、多様な風土や文化、そして数多くの愛すべき個人一人一人の存在であって、国家や国体ではなかっ たんじゃないか。宮崎駿がこの映画で表現しようとした「美しい日本」もやはり、国家や国体を含んでいない。そんなふうに感じました。宮崎駿は、国家や国体 の幻想に身を委ね過ぎることによってもたらされる破滅を恐れている。彼自身がそのような破滅に向かう気質を持った人間であるという自覚が、警戒心を一層強 めさせているのだと思います。
自分のツアー暮らしは、美しい風土を発見する一方で、多様性や美しさを失いつつある日本を目の当たりにする日々でもあります。人間との共生によって成り立 ち、微妙なバランスを保ちながら、長い時間をかけて「手入れ」され続けた日本の美しい自然は、破壊され「管理」されることで、その姿を失いつつあります。 郊外にショッピングモールや大型チェーン店が進出することで、個人店はシャッターを降ろし、繁華街は廃れ、街の空洞化、画一化が、各地で進んでいます。地 方における原発の立地も、環境の破壊や共同体の分裂をもたらしました。このような現状に対する危機感が、宮崎駿の中にもあり、その思いが、この映画を作 り、「美しい日本」を描こうとする動機の一つになったのではないかと考えます。
時の首相が口にする「美しい国」と、宮崎駿が思い入れする「美しい日本」、二人がさす「美しさ」には共通項が少ないのかもしれません。現政府が掲げる国土 強靭化計画によって必要以上に海がコンクリートで固められ、TPP参加によって、グローバリズムがより進行することになれば、各地の風土色はそこなわれ、 画一化に拍車がかかり、共同体は破壊され、「美しい日本」が加速度を増して失われてゆくのではないかと危惧します。
体験がもたらしたこういった自分の感覚、捉え方は、イデオロギーから来たもではないと思います。そして宮崎駿がこの映画で伝えようとしていることも、イデ オロギーに偏ったものではないと思います。自分のイデオロギーにあてはめて語ることで、見えなくなる大切な何かがあるということを、この映画は伝えている ように感じました。
しかし、体験がもたらす感覚も、やがて特定のイデオロギーに取り込まれ、ナショナリズムの高まりや国家間や民族間の争いの渦に巻き込まれてゆく要素を持っ ているのかもしれません。文章を綴るうちにそんな考えも生まれ始めました。思考はもどかしく続きます。答えはすぐには見えないし、割り切った答を出すべき ではないと思います。
「風立ちぬ」という映画には、共感だけでなく、違和感を抱かせる描写もあり(それは確信犯的な表現かもしれませんが)、語るべき点がまだ色々と存在しま す。女性がこの映画を観たら、もっと強い違和感を持つのではないかとも思いました。この映画は、自分のさまざまな感覚にリンクし、問題を提起し、思考を拡 げてくれました。答を押し付けるのではなく、まず感じさせた後に考えさせる、そんな力を持つすぐれた作品だと思います。
ー2013年8月20日(火)

2013年8月5日月曜日

宮崎駿監督「風立ちぬ」を観て【前編】

ー「美しさ」がもたらす破滅 先日、宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」を観に行ってきました。零戦の設計者、堀越二郎の半生と彼が生きた大正から昭和前期の時代を描いた作品 です。主に子供を対象にして、ファンタジーに軸足を置いてきた今迄の宮崎駿作品とは一線を画する内容だと感じました。実際、自分が足を運んだ劇場の客席を 埋めたほとんどは、成人をとっくにこえた大人ばかりで、未成年者は少数でした。これは、今迄の宮崎作品には見られなかった傾向かと思います。
映画を見終えて数日が経過しましたが、まだ映画の余韻が残っている感じです。内容を思い返していると、思考がさまざまに広がってゆきます。自分自身にとっても、今の時代にとってもタイムリーな作品なのだと思います。
この映画では、二郎が夢に向かって突き進む美しい姿と、日本帝国が破滅に向かって突き進み、崩壊する姿がリンクして描かれています。「美しい飛行機を作り たい」という二郎の汚れのない人生の目標は、皮肉にも、数多くの戦死者を生み出し、結果的に、彼は日本帝国の崩壊に加担することになります。
この映画は、「戦闘機が大好きで戦争が大嫌い」という自己矛盾を抱えた作者が、その矛盾に向き合おうとした作品だとも言えると思います。宮崎駿が堀越二郎 に自身のメンタリティーを投影したことは間違いないでしょう。宮崎は「夢は狂気をはらむ」と自ら語っています。その毒を隠すことなく表現することを、彼は この作品の1つの使命と課したように感じました。
映画を見終えた後に、この映画で描かれている零戦の設計者である堀越二郎と、核開発や原発に関わった科学者や技術者の存在を重ね合わせて考えました。彼ら の夢や目標にも「美しさ」は存在したと思います。そして、その「美しさ」こそが破滅をもたらしてしまうという「呪わしさ」を、我々はどう受けとめればいい のでしょう。
二郎達の見た夢は、人類の押さえ難い欲望であり、業そのものと言えるのかもしれません。それらに向き合うことなく、原発や核の問題を解決することは難しいと思います。我々は今も業の只中にいます。果たして、舵を切り直すことができるのでしょうか。
この映画は、「反戦映画」の範疇から離れ、善悪をこえた本質、そして光と闇の両面を伝える力を持った作品だと感じました。それこそが、政治や社会運動では フォローしきれない、映画や音楽、小説といった表現が担うことのできる大切な役割の一つなのだと思います。(続く)
ー2013年8月5日(月)

2013年7月23日火曜日

北海道中虹別にて

北海道ツアー中です。9日間で、6ヶ所を回る旅です。オホーツク海沿いの街、常呂町で、このブログを書いてます。
21日は釧路から網走行きの釧路本線に乗りました。湿地帯を走る車窓の景色が素晴らしかったです。摩周駅で下車して、そこから車で迎えにきてもらって、中 虹別へ。この日のライブ会場「月の森」は、廃校(旧中虹別小学校)を使ったスペース。ライブ主催者の永井さんが9年前に町から借り受け、イベントスペース に改装しました。
このあたりは酪農家の集落地で、回りは森と牧草地と農地ばかり。校舎前のグランドだった場所には蕎麦畑がひろがっていました。ライブをやらせてもらうのは 4回目になるのですが、この場所に人が集まってくるのが、毎回不思議に思います。なんだか宮沢賢治の童話や、宮崎駿のアニメの世界にいるような感じ。集 まってくれたお客さんは、もしかしたら森の動物達が化けてるんじゃないか、なんて妄想がひろがります。
ライブを行ったスペースは、元々職員室だったそうです。打ち上げも地元の皆さんと一緒にその場所で行われました。
打ち上げに参加した地元の人達の中に、京都から酪農家に嫁入りしてきたNさんという同郷の女性がいました。OLの仕事を辞めて、結婚して、越してきてから まだ1年も経っていないそうですが、こちらの暮らしが肌に合っていて、毎日が充実しているそう。毎回ライブに来てくれる酪農家のYさんは東京から越してき て、入植されて10数年。京都から嫁入りしてきたNさんが山本さんに興味津々で、さまざまな質問を投げかけている姿が、印象に残りました。東大を卒業後、 国家公務員としてこの町の近くにやってきたHくんは、今回、同僚の後輩の女性Oさんを連れてきてくれました。こういうイベントが、地元の人達同士の出会い と交流の場になることも多いんです。初対面の人も馴染みの人同士も、楽しくお酒を飲み交わし、宴は多いに盛り上がりました。
打ち上げでは、地元の酪農家の方々とTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)についての話もさせてもらいました。近年、跡継ぎ不足や生乳価格の低迷、飼料価 格高騰や猛暑による搾乳量減少などで、酪農をやめる農家が後を絶たないそうです。全道でこの1年間で約200戸が酪農を離れ、この集落でも、この10年で 3割程の酪農家が離農したそうです。
日本がTPPに参加した場合、日本の酪農は多大な影響を受けると言われています。TPPの影響を最も受ける都道府県は北海道ではないかという話を聞くこと もあります。100%を超える北海道の食料自給率(日本の平均は40%を切ってます)が、急激に低下し、地域社会、産業、地域経済の崩壊が懸念されていま す。
Yさんは、自分自身は乳牛のブランド化を成功させたことで、TPPからの悪影響をまぬがれることが可能だと考えているようでした。ただし、地域で生産され た生産物や資源(主に農産物や水産物)をその地域で消費する「地産地消」のあり方は難しくなるだろうとの予測で、やはり、そこにTPPが抱えるさまざまな 問題の内の1つがあると思います。
実は翌日に、次のツアー先であるオホーツク海沿いの町、常呂町の知人から、北見で行われるTPP反対のデモに参加しないかと誘われていました。移動の都合 も考えて、デモには参加しませんでしたが、昨夜、常呂町入りしての地元の皆さんとの飲み会では、TPPと今回の参議院選挙の結果が大きな話題になりまし た。この話は多分次回のブログで。
ー2013年7月23日(火) 

2013年7月19日金曜日

期日前投票を終えた後も、まだもやもやしてます

YouTubeで、ある候補者の演説をみて、ぐっときた。新しい選挙スタイル。違いを解して尊重し合い、和をとるテク ニックを磨く、 「戦う」「倒す」ではなく「語り合う」「分かり合う」、そういう姿勢に共感できた。時々恥ずかしくなることも言う。その「青さ」が魅力にも思えた。
また別の彼の演説をYouTube見たら、「あれ?」と思うことも言ってた。これは、足をすくわれそう。それでも、やっぱり惹きつけられた。勇気がある。 共鳴力がある。言葉が音楽になってる。キング牧師の演説を聞いたときもそんな風に思った。ヒトラーもそうだけど。
その候補者のことを調べてゆくうちに、同調できない言説もいくつか。ちょっと危うい。でも、この人、体験して変わってゆける柔らかさがあるんじゃないか。これから経験値を深めてゆける人ではないかと。そこに可能性を感じた。
「オレ1人に頼るな、人まかせにするな」と彼は訴えていた。カリスマが求められる世の中は不幸だ。3.11以降、よりそう感じるようになった。多分同じよ うに考えている彼自身もカリスマ性が高い。ルックスもよくって、意味を超えて共感させる力を持ってる。だから、危険性も孕んでる。その力をこれからどう 使ってくれるか。
彼が当選する可能性は低いみたい。死に票になってしまうのもなあ。でも、国会に行く姿を見てみたいなあ。

やっぱり、政治は政治のプロにまかせるべきなのか?現実的なスキルのある人に一票をたくすべきなのか?政治は残酷は現実の世界。甘っちょろい理想なんて通じないのか?
いや、今迄、プロにばかりまかせ過ぎた結果が、この状況ではないか?現実に流され過ぎた結果が、54基の原発を許し、あの事故を招いたんじゃないか?状況 を変えてゆくには、プロにまかせるだけでなく、アマチュアの視点や態度も必要なのでは?理想に走り過ぎるのは危険だけれど、3.11以降、理想の欠如に よってもたらされた社会のあり方に、違和感を強くしていたのも事実。
「理想」と言えば、時の首相も「理想主義者」の側面があるんじゃないか?こちらが描く「理想」とは大分離れているけれど、私利私欲の人ではないのかも。あ る意味、自分の「聖域」を大切にしている人、ピュアネスを維持してきた人なんじゃないか?もしかしたら、ピュア過ぎて、理念が強過ぎて、理念のために暴走 する危険があるんじゃないか?
今の世の中、酸いも甘いも知った叩き上げの人材って、なかなかいない気がする。多分、現代人は、総合力が落ちてる。情報量は爆発的に増えたけれど、体験値が少ない。だから、謙虚にフォローしあわわないと。
3.11以降、世の中には、理想が足りなかったんだと感じてきたけれど、もしかしたら今は、理想が暴走する危険性を孕んだ社会になるつつあるのかもしれな い。自分がみている現実がすべてだと思ったら間違い。見えてない現実がたくさんある。「理想主義者」はそのことを忘れがちなんじゃないか?どの方向に行こ うとも、極端に一方向に走ると「不寛容」がひろまり、対立がより深まる気がする。

いらついた誰かが、共通する考えが多いはずの候補者をツイッターで批判し始めた。その指摘が必ずしも間違いだとは思わない。でも、伝え方がよくない。話し合いの余地なしって感じ。遺恨が残りそう。
余裕がなくなるにつれて、寛容さが欠けてくる。それって、今の世の中そのものじゃない?「正しさ」をぶつけあうと、どんどん互いを許せなくなる。近いはずの人間同士が「許せない相手」になってしまう。繋げる役割が必要。

もう余裕がない、時間がない。これが最後のチャンス。方々からそんな声が聞こえてくる。焦らされるなあ。冷静な思考を奪われそう。強迫的なのはよくない。
自分の票が死に票にならないように、現実的に考えて、確実にクサビを打ち込むことを考えるべき。それも確か。政策面での違いが少ない政党や候補者が多いのだから、もう少し選挙協力して一本化の方向にいってくれたら、ここまで悩まなかったのに。
政治は好きじゃない。でも、無視できない。やはり、新しい動きには期待したい。
考える程、心が重くなるなあ。ここまで悩んで投票したのははじめて。期日前投票を終えた後も、まだ気持ちがもやもや。当事者意識が高まったってことかなあ。
ー2013年7月19日

2013年6月30日日曜日

2013年6月被災地からーその3

20キロ圏内、福島県南相馬市小高区へ入る 24日、相馬市でのライブ当日、会場入りする前に、南相馬で暮らす知人が、福島第1原発から20キロ圏内の小高区を車で案内してくれました。一昨年の10 月に南相馬を訪れたときは、20キロ圏内はまだ立ち入り禁止でしたが、現在は、日中に限っての出入りが認められています。

小高駅近くの商店街は全く人通りがなく、2年前から時間が止まっているようでした。元々田畑だった土地は雑草が生い茂り、海沿いの住宅地だった場所も、更 地ばかりが広がり、遠くまでを見渡すことができました。現地に足を運んでみて、途方もない津波の被害の大きさを、あらためて思い知らされました。この地区 は、放射性物質の除染作業もまだ行われていません。
自分が見て回った限りでは、小高区で復興が進んでいる気配は感じられませんでした。正直、街が再生する可能性があるのだろうかと思ってしまいました。道中、ためらいを感じながら、カメラのシャッターを押し続けました。

東洋経済 南相馬市小高区に見る、原発被災者の窮状
http://toyokeizai.net/articles/-/13610?page=3

相馬市と南相馬市は、地震、津波、原発事故の被害を一度に被りました。どの被害も甚大ですが、地元の人達の話を聞いていて、街の未来を描いてゆく上では、放射能物質拡散の問題が特に重くのしかかっていることを感じました。
これも今回のツアー中に、ある知人女性から聞いた話ですが、彼女は最近、2年数ヶ月振りに洗濯物をベランダに干したそうです。それは、線量が下がったから ではなく、「あきらめたから」だそうです。放射能がその量によって人体にどれ程の影響を及ぼすのかは、はっきりした答が出ていないと思いますが、原発事故 による放射能物質の拡散が、今も多くの人達に、多大な不安とストレスを与え続けていることは事実です。
原発事故の保障に関する非常にナイーブな問題も耳にしました。原発のあり方、構造が、事故前も事故後も、地域を分断し続けているのです。経済ばかりを重視し、お金ばかりで解決しようとすることで生じた歪みは、今も深刻です。
今回のツアーで被災地を回り、地元の人達と交流することで、「“復興”とは、何なのか」ということを、あらためて考えさせられました。経済復興だけでは解 決できない問題が数多く存在します。被災地の“再生”のためには、被災地以外で暮らす自分達も、生き方の根本を問い続ける必要があるのだと思います。これ は、オレ自身、あなた達自身の問題でもあるのです。


2013年6月25日火曜日

被災地からーその2

石巻にて ★5/22(水)石巻商店街カフェのママさんの話
ライブの会場入りする前、石巻市街をぶらついていた時に、ふらりと入った喫茶店で、そのお店の気さくなママさんと長話をさせてもらい、印象的な話をいくつか聞かせてもらいました。
ママさんは、3.11から2年以上が経過して、被災した自分自身の中でも、震災の記憶が薄れかけてきているので、記憶にとどめておくために、津波で壊滅的な打撃を受けた沿岸部を、時々車で走ることにしているそうです。
石巻市街は、郊外に大型店、ショッピングモールができたことによって、ドーナツ化現象が進み、商店街は3.11以前から既に寂れた状態にあった。だから、 復興といっても元に戻すだけではだめで、これを機会に、人が集い、繋がる、新しい街づくりを進めていかないと意味がない。
このママさんの話を聞いて、経済成長中心の社会あり方、分断されたコミュニティーの問題、車中心の街づくり、生活のあり方、そういった根本的な問題が、3.11を契機にして、問い直されるべきだということを、あらためて感じました。

★5/23(木)石巻・日和山公園から街を見下ろす
前日に石巻でのライブを終え、この日は午前中、被災地の支援活動を続けるNPO法人オンザロードで活動する上野祥法君の運転する車で、日和山公園まで連れて行ってもらい、海沿いの街を一望しました。
2年前に石巻入りして、最初に訪れた場所が日和山公園でした。公園に到着すると、眼前に、津波に飲まれ廃墟となった街の姿が、一気にひろがりました。言葉 もなく呆然と立ち尽くす中、瓦礫を撤去する重機の音ばかりが虚しく響いていたのを覚えています。
そして、あれから2年を経て目の前にひろがっていたのは、一面更地ばかりの景色でした。その光景に、”人の営み”を感じとることはできませんでした。
その後、車で山を降り、公園から一望していた門脇町あたりまで連れて行ってもらいました。かって住宅街だったこのあたりは、大きな公園になる計画が進んでいるそうです。街の姿が元に戻ることは、もうないのだと実感しました。

2日間の石巻滞在中に、“再生”に向かってゆく地元の人達のエネルギーを感じとれたことは、1つの収穫でした。
午後には石巻を後にして、仙台を経由してバスを乗り継いで相馬に向かいました。JRがつながっていないと相馬までは遠いなあと実感しました。
相馬入りした夜は、相馬市、南相馬市の知人3人と再会し、飲み会を行いました。原発の話はやはり重たくなりましたが、バカな話もたくさんしました。

2013年6月22日土曜日

被災地からーその1

志津川から石巻へ 5月後半に行った東北ツアーは、ライブ以外に、なるべく多くの被災地を見て回り、地元の人達と交流し、現地の生の声を聞かせてもらうことを目的の1つにしました。ブログで3回に分けて、その報告をさせてもらいます。

★5月21日(火)ー被災地、志津川、石巻へ
ツアー初日の前日に当たる21日、被災地である石巻、女川の支援活動を続けるNPO法人オンザロードで活動する上野祥法君と、早朝に下北沢で待ち合わせ て、彼の運転する車で東北に向かいました。お昼過ぎには、南三陸志津川に入り、まずは、現地の知人である内田智貴君と彼のご両親らが昨年にオープンさせた 「さんさカフェ」におじゃましてランチをいただきました。
内田君とは、2年前にソウルフラワーユニオンの中川敬君、高木克ちゃんらと訪れた志津川高校の避難所で、出会いました。彼は、3.11以前は、志津川で、 兄の卓麿君と2人でバーを営んでいたのですが、3.11の震災で、お店は4千枚のCDと共に津波に飲まれてしまいました。3・11以降しばらくは、町中 で、遺体を見つけては、2人で避難場所まで運ぶ毎日だったそうです。
 お店のほとんどすべてが流されてしまった中で、奇跡的に調理師免許だけが見つかったことをきっかけに、2人はボランティアで避難所の調理担当を受け持つ ことになります。そのとき、自分達がいくつもの避難所を回った中で、志津川高校避難所は最も厳しい環境下にあるように見えました。そんな厳しい状況の中 で、とにかく明るく、バイタリティーにあふれ、キャラ立ちがよい内田兄弟の姿は、津波によるあまりにも甚大な被害を目の当たりにして、ショック状態だった 自分にとって、1つの救いになりました。
兄の卓麿君は今年に入って上京し、中目黒にglowというバーをオープンさせました。
http://ameblo.jp/glow23/entry-11496130164.html
料理も美味しくてほんといいお店です。
弟の智貴君は、両親とともに今も仮設住宅住まいです。

内田兄弟とはその後、何度かの再会を果たしましたが、自分が志津川を訪れるのは、その時以来2年振りでした。さんさカフェでしばらく、ゆっくりさせても らった後は、カフェのスタッフのじゅんさんに街を案内してもらいながら、震災当時、震災後の状況を色々と聞かせてもらいました。
高台から志津川の街を見下ろすと、更地ばかりが目立ち、3.11以前の街の姿を想像することは困難でした。久し振りに訪れた防災対策庁舎では、自分達以外にも、鉄筋だけを残した庁舎の前で、静かに手を合わせる人を何人も見かけました。
この場所で、たくさんの人達の命が奪われ、生き残った人達の人生も一変してしまったのだということを、あらためて感じさせされました。それでも、今もここ に人の営みが確かにあるということも感じることができました。2年振りに志津川を訪れて、この街がどのように”再生”してゆくのかを、確認したいと思いま した。

陽が沈む頃には石巻に入り、夜は、市街の居酒屋にて、同じく石巻入りしていた海さくら(江ノ島の海をきれいにして次世代に残すための活動をしている団体) 代表の古澤君の音頭によって、東京海さくらチーム有志と、昨年から活動を始めた石巻海さくらチーム、そして地元の人達合わせて20人近くが集まる飲み会が 催され、そこに自分も参加させてもらいました。
初対面同士が多いにも関わらず、宴は多いに盛り上がりました。震災にまつまわる貴重な話も多く聞かせてもらい、楽しくも意義深い夜になりました。その場に 集まった中には、震災のボランティアで石巻に入ったことがきっかけで、石巻に引っ越したという若者が数人いました。これは、震災後の石巻では珍しい例では ないそうです。
宴席で印象に残る話を色々と聞かせてもらいました。
「震災後のあんな苦労はもう2度とできない。もう一度震災に遭遇したら、自分はもうあきらめてしまうかもしれない」門脇町の自宅を、津波で流されたHさんのこの言葉は胸に刺さりました。
最近子供が生まれたばかりで女川暮らす知人の思い「女川の街は津波で流されてしまって何も残っていないけれど、この子の成長と一緒にもう一度新しい街づくりをしていくのだ」という話にもぐっときました。
実に濃密な1日でした。

2013年5月10日金曜日

「暗闇」の消失ーTPP、アベノミクスの時代の中で 暗闇の中で思い馳せる時間が生まれる。

闇の中で文明の灯がもっと奇麗に見える。もしかしたらここに光明がある。逆説的だが、節電の暗闇こそが光明の芽生えではないか。ー荒俣宏

この言葉に出会ったのは、3.11から2ヶ月を経過した頃でした。
自分自身、この時期、「節電の暗闇」の中で、かすかにではあるけれど、確かに「光明の芽生え」を感じていました。

自分が暮らす神奈川県藤沢市は、福島第1原発の事故の影響で、計画停電の区域に入りました。計画停電が実施された夜は、街の灯がすっかり消えてしまいまし たが、自分が通うような個人営業の飲み屋は、ロウソクの灯りなどで営業を続け、そこには多くの人が集いました。
行きつけのバーのマスターが、計画停電実施予定の夜に合わせて、地元のミュージシャンに声をかけて、何組かの「流し隊」を作り、他店と協力して、サーキッ ト形式の完全アンプラグドライブを企画したりして、停電の夜を楽しんでやろうという発想も生まれました。
計画停電実施の正否は別にして、そこには、暗闇の中で人が集い、希望を見出そうとする姿がありました。そういった姿勢は、自分が暮らす街だけでなく、ツ アー先でも、被災地でも、感じることができました。そこには、わずかではあるけれど「光明の芽生え」がありました。
不安、絶望感の中で、自分は次第に、新しい時代が始まる期待感も抱き始めるようになりました。舵を切り直すなら今だ。暗闇の中で立ち止まり、利潤と効率ば かりを追求する姿勢や社会システム、資本主義のあり方、国民国家のあり方、文明のあり方、生きる意味までをも問い直す時期が来たのだと感じました。
自分は性急な変化や革命を求める人間ではありませんが、3.11以降、もうこのままではだめなんだろうと感じて、「本質的な問いかけ」の時代が始まることを期待していました。
けれど、人間は、良い意味でも悪い意味でも、忘れやすい生き物だということを、この2年数ヶ月で、自省も込めて、多いに実感させられることになりました。

すべてのソウルにいつも灯がともるように
どんなやるせない夜でも
さまようソウルがいつか誰かに出会うように
光は闇の中に

これは、10数年前に自分が書いた「ソウル」という曲のサビの歌詞です。
3.11以降、自分の中で、この曲の響きや意味合いが変化しました。「光は闇の中に」という逆説的なフレーズは、それまで以上のアリティーを持って、自分の中に響くようになりました。
特に、3.11直後しばらくは「この絶望の中からでしか、明日は見出せない」という思いを強く持っていました。けれど、その気持ちを維持し続けるのは、正直しんどい作業で、次第に絶望からは目をそらしがちになりました。
自分が絶望から目をそむけたいという気持ちと、今のアベノミクスに乗っかりたいという”気分”には、共通したメンタリティーがある気がします。
アベノミクスと呼ばれる経済政策で景気が上向き、やがて内需が拡大すれば、それは、被災地の“復興”にもつながるでしょう。自分も、今の経済政策に不安を 残しつつ、景気の回復を期待し、被災地の”復興”を願う1人です。ただ、その“復興”は、「以前に戻す」ことではなく、新しい価値観による“創造”を伴っ たものであるべきだと考えます。

3.11から2年数ヶ月の間で、時代の空気はかなり変化しました。今年に入ってからも、随分空気や流れの変化を感じます。3.11をなかったことにしたい という無意識は、よりひろがりつつある気がしています。それは、何かや誰かを見捨ててゆくことにもつながるのだと思います。
今、TPPやアベノミクスの時代の中で、人々は「暗闇」を失いつつあると感じています。それはつまり、「明日のための絶望」や「本質的な問いかけ」が失われつつあるということです。「暗闇」が失われる程に、「光」は遠のいてゆくのだと思います。
ー2013年5月10日(金)

2013年4月7日日曜日

「少年の眼差し」ーチャボさんのこと

先日、4/9(火)渋谷クアトロで開催されるセッションイベント「HOBO CONNECTION 2013 ~HOBO SPECIAL~」のリハーサルで、チャボさん(仲井戸麗市)と久し振りに再会しました。
 スタジオ入りしたチャボさんは、オレの顔を見るなり「お~、リクオ!久し振り~!」と言いながら近づいて、やさしく肩をハグしてくれました。この一連の流れがとても自然で、「チャボさん、やっぱりかっこいいし、優しいなあ」って思いました。

 チャボさんは、オレにとって清志郎さん以上に身近に感じるアイドルでした。清志郎さんは若い頃から確信に満ちていて、どこか完成されたイメージがあった のですが、チャボさんはさまざまな逡巡を経て次第に確信に近づいてゆくような、少しずつ成長してゆくようなイメージがありました。そのイメージに自身を重 ね合わせていたんだと思います。
 チャボさん初のソロアルバム「The 仲井戸麗市ブック」を、学生時代に繰り返し聴いていました。表面的にはカッコつけていても、すごく繊細で正直、ナイーブさが伝わる作品でした。アルバムを 聴く度に、どこか甘酸っぱい、胸を締め付けられるような思いにかられたのは、とっくに過ぎ去ったティーンエージャーの頃のときめきと「少年の眼差し」を、 チャボさんが大切に抱え続けていたからだと思います。
 チャボさんは、いろんな音楽や人や場所に憧れ続けながらも、憧れそのものにはなれない、たどりつけないことを自覚して、自分がいる場所からの表現を探ろ うとしているように感じました。チャボさんの音楽と表現に向かう姿勢が、自作曲を歌い始めようとしていた当時の自分の背中を押してくれた気がします。

 チャボさんとはじめて共演させてもらったのは、今から23年前、自分がCDデビュー直前の時期でした。今はなき渋谷のジャンジャンでの友部さんのライブ にチャボさんがゲストで呼ばれた時、自分も鍵盤奏者として参加させてもらったんです。この時のライブを清志郎さんが観に来ていたことが、自分が清志郎さん のサポートをしばらくやらせてもらうきっかけになりました。
 初対面したチャボさんは想像した通りの人でした。それは、清志郎さんと付き合わせてもらうようになったときにも感じたことでした。2人の音楽を聴き続けることで、自分は既に2人に出会っていたのです。
 聞きたいことがたくさんあって、ライブの打ち上げでチャボさんにいろんな質問をしました。打ち上げの席にファンが1人紛れ込んだようなものです。「チャ ボさんのあの歌のあの歌詞のフレーズは、あの曲のあの歌詞のフレーズのオマージュじゃないですか」といった質問に、チャボさんは嫌な顔1つせず、実に丁寧 に答えてくれました。で、その答が、やっぱりこちらの予想通りの答だったりして、2人の会話が弾み、すごく嬉しかったのを覚えてます。今思うと、場をわき まえない自分の態度を恥ずかしくも思いますが、いい想い出です。
 それからチャボさんの自宅住所を教えてもらって、すぐに手紙を出したら、すぐに返事が返ってきました。それが嬉しくって、また手紙を書いたら、またすぐ に返事が返ってきました。さすがに、それ以上手紙を出すのはやめておきました。チャボさんって、そういう人なんです。

 自分は、CDデビュー前後に、憧れの存在だったチャボさんと清志郎さんに対面することができたのですが、デビューして数年が過ぎ、音楽活動が煮詰まって ゆくにつれ、次第に2人の存在を自分の中から遠ざけるようになりました。その内、2人の音楽をめったに聴かなくなくなりました。このへんの感情を説明する のは、難しいです。「憧れ」や「ナイーブ」や「過去」から距離を置こうとしていた自分がいたことは確かです。大切なものだからこそ、やわらかい場所がしめ つけられて、蓋をしてしまいたくなる時期があるのだと思います。

 キャリアを重ねて嬉しく思うことの1つは、さまざまな再会を果たすことができるようになったことです。それは、再会を受け入れる心の準備が、次第に自分 の中で整ったということでもあります。そうなると、かたくなだった頃の自分が不思議に思えてきたりします。人はほんの少しずつ変わってゆくのだと思いま す。

 先日のチャボさんらとのリハーサルは、ほんとワクワクしっぱなしでした。リハサールに参加したすべてのミュージシャンが10代に戻ったような笑顔で音を 交わし合いました。皆と一緒に音を奏でているこの瞬間が最高の宝物のように感じられました。本番のステージでなかろうと、どんな時でも、音を交わし合う一 瞬一瞬が一期一会なんだということを実感しました。
 ギターを弾き歌うチャボさんの眼差しが、とても印象に残りました。それは、オレがチャボさんと出会った頃から変わらない「少年の眼差し」でした。自分の中の、過去と現在が繋がってゆくようでした。

 4/9(火)「HOBO CONNECTION 2013 ~HOBO SPECIAL~」渋谷クアトロ公演はオレにとってだけでなく、多分参加してくれた皆にとって、特別な夜になると思います。ぜひ立ち会って下さい。
ー2013年4月7日(日)


2013年2月22日金曜日

「We're All Alone」 の解釈を巡って

最近、Boz Scaggsの名曲「We're All Alone」 の歌詞の意味が気になって、ネットで色々と調べてみたら、さまざまな訳詞がアップされていました。ところが、元詞に対する意味の解釈が、それぞれに相当 違っていて、どれが正しいのかと最初は混乱してしまいました。けれど、ネットサーフィンをしながらさまざまな訳詞に目を通してゆくうちに、次第にその解釈 の違いが面白く感じられるようになりました。
 歌詞全体の内容を、駆け落ちや不倫の歌と解釈する人もいれば、「死んだ主人公を目の前にして悲しんでいる恋人に向かって、その“死んだ主人公”が語りか けている」という解釈にそって訳している人もいました。シンプルな歌詞のようでいて、これだけ解釈に幅が生まれるのは、この曲がそれだけ聴き手の想像力を 掻き立てる魅力を持っているという証拠かもしれません。
 その違いが最も顕著に表れていたのは、サビのフレーズにも出てくる曲タイトル「We're All Alone」 の解釈でした。この曲は、後にRita Coolidgeがカヴァーしてヒットさせていますが、そもそもボズとリタのヴァージョンでは邦題が違っています。ボズが歌ったヴァージョンには「二人だ け」という邦題がつけられていましたが、リタがカヴァーしたときは「みんなひとりぼっち」に変更され、タイトルの意味がまるで変わってしまっているので す。
 自分はと言えば、長年の間「みんなひとりぼっち」の解釈で、この曲を聴いていました。けれども今回、曲を聴いて、あらためて英詞を読み直し、さまざまな 訳詞を見た上で、どうも「二人だけ」寄りの解釈の方が、歌詞全体を通してしっくりくるように感じました。
  最近ではアンジェラ・アキさんが、この曲を日本語でカヴァーしていて、「人間は皆ひとりだから~」と歌っています。全体を通して、曲を自分の側に強引 に引き寄せたような、オリジナルな意訳で、新鮮な違和感を持ちました。違和感を持ったということは、ひっかかる何かがあったということでもあります。それ で、もう1度聴き直してみたら、1度目とは自分の感じ方、聴こえ方に変化がありました。曲のあらたなイメージに、自分の感覚が慣れてきたのだと思います。 聴き直してみることで「カヴァーだけれど本人のオリジナルな歌になっているんだな」と勝手に納得がいきました。こういう体験が自分にはとても面白く感じら れました。
 「We're All Alone」 の歌詞を探ることで、「曲や詞の正しい解釈を求め過ぎる必要はない」という結論をあらためて確認した気がします。その訳が誤りだったとしても、その誤りが もたらすオリジナリティーに充分な魅力が感じられることもあります。解釈に正解というものはなく、どんな曲も発表された時点で作者の手を離れ、聴き手の解 釈に委ねられるものだと思います。大切なのは、「どういう意味なのか」ということではなく、「聴き手がどう受け取り、解釈し、イメージしたか」だと思いま す。聴き手の想像力をひろげ、さまざまな解釈を可能にさせることが、きっと「名曲」の条件の1つなのでしょう。

 そういえば、自分は曲の歌詞やタイトルを聴き間違えられることが、結構よくあるのですが、その間違い方に毎回笑わされたり、関心させられたりしています。
 例えば「グレイハウンドバス」というタイトルを「京阪バス」と聴き間違えた関西人がいました。グレイハウンドバスはアメリカ大陸を東西に横断する今も実 存する長距離バスです。それくらいのスケール感で聴いてもらいたかった旅の歌が、隣街の京都大阪を行き来するスケールで聴かれていたとは。唖然としつつ も、笑えました。
 「孤独とダンス」という曲タイトルを「コルクとダンス」だと思い込んでいた人もいました。聴き間違いにしても、想像力を掻き立てるいいタイトルだなと関 心させられました。こうした間違いは、人間の想像力の面白さ、豊かさ、音楽が持つ自由さを伝えてくれるエピソードだと思います。

  「We're All Alone」 の歌詞を探る作業の中で、この曲に対する新たなイメージ、自分なりの解釈がどんどんひろがってゆきました。それは誰に頼まれたわけでもないたった1人の、 自分のためだけの楽しい作業です。そういった試みの中からも新しい曲は生まれてくると思います。多分。そろそろ、生まれてこないかなあ。
 2013年2月22日

2013年1月30日水曜日

「不安」とのお付き合い  

「ライブ前に緊張しないんですか?」「ステージ上で不安にかられたりしませんか?」といった質問をしばしば受けます。正直に話せば、いまだにライブ前はある程度緊張するし、不安にもなります。
 調子がよくない時は、ステージに出てもふわふわした状態が続き、不安を振り払って集中力を維持できるようになるまでに、時間がかかってしまいます。経験 を積み重ねて、若い頃に比べれば、ある程度自分の精神状態をコントロールできるようにはなった気はしますが、それでも完全にコントロールすることはできま せん。特に疲れてるときはダメです。
 年間130本前後のツアーを回っていて、毎回ベストコンディションでステージにのぞむことは不可能です。だから、調子が悪い時は、悪いなりに時間をかけ てでも歌に向き合い、次第にその場とアジャストし、共鳴してゆく、そういったプロセスを見てもらうことをイメージしています。つまり、完璧な形をみせるの ではなく、その夜のライブが1つのドキュメンタリーとして成立すればいいと考えるようにしています。

 人前に立つ上で、完全に不安を取り除くことは無理なんじゃないかと思います。その日にどんなリアクションが起こり、どんな共鳴が生まれるかは、やってみ ないとわからない。やり方の正解はその都度変わってゆきます。どんなに経験を積み重ねても、ライブはいつだって、未知をはらんだ世界です。それはワクワク することであると同時に、やはり不安と緊張をともないます。人生と一緒です。
 だから、腹を決めるべきなんです。「不安」と向き合ってやる、付き合い続けてやるんだと。そうやって毎回「不安」を乗り越えてやるんです。
 いや、きばり過ぎやな。考えてみたら、解放、歓喜に至る過程には、いつも「不安」が存在するような気がします。「不安」なくして解放なし。ならば、「不 安」のことをもっと大切に思うべきなのかもしれません。「不安」と闘うのではなく、毎回「不安」を迎え入れた上で、その先へ向かう。 そんなイメージ。
 不安なときは孤独です。孤独なときは不安です。人は孤独から一時逃れることはできても、ずっと逃れ続けることはできません。だから「不安」からも逃れる ことができない。自分の書いた曲で「孤独とダンス」というタイトルの曲があるのですが、「不安」ともダンスを踊ってやるのがいいのかもしれません。しばら くご無沙汰していても、生きている限り「不安」は折々に必ず戻ってきます。どうやっても逃れられないのなら、嫌わずに迎え入れてあげた方がよさそうです。

 ただ、「不安」とどっぷり付き合い過ぎることの危険性も感じています。性急に「不安」の正体を突きつめようし過ぎると、底なし沼に足を取られて、引きず り込まれそうな気がするのです。この世はどこまでも謎に満ちていて、生きている限り、不安に対する究極の解決策は存在しないように思います。知らなくてい いこともあるのかもしれません。本来、「知る」という行為は、自分の足下さえ崩しかねない危険性、恐ろしさを伴っていると思います。人間関係と一緒で、 「不安」との付き合いも距離感が大切なのでしょう。
 とは言え、僕たちは自らが抱える「不安」に向き合うことを避けるばかりで、あまりにもその正体を知らなすぎるのかもしれません。適度な距離で付き合え ば、「不安」はそんなに悪い奴じゃない、きっと、さまざまな気づきを与えてくれる存在のはずです。
 不安や孤独をゆっくり掘り下げてゆけば、いつか、共感や解放をもたらす豊かな水脈に通じる。そんなイメージを持ってみてはどうでしょう。「不安」とは、 生きてゆくための潤滑油になりうる大切な感情の1つです。「不安」とも、いいお付き合いをさせてもらえたらと思います。

2013年1月29日火曜日

「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【後編】

自分は、表現者としては、聖と俗、この世とあの世、ダイアローグとモノローグ、あるいは緊張と解放を「行き交う」感じが好きなんです。行きっぱなしは嫌なんです。あちらの世界にいったら、またこっちに戻ってきて、「行き交う」ことのプロセスを楽しみたいんです。
 確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
 あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
 そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
 このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、 ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。

 今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他 人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
 「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取 り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国 家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
 ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願 望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
 「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
 こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
 
 最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを 見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま す。
 自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)

2013年1月25日金曜日

「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【前編】

最近、自分の頭の中でリフレインされている言葉の1つが「相互作用」です。同じような意味で「インタラクティブ」というカタカナが使われることが多いようですが、自分には、「相互作用」という言葉の方が、意味がストレートに伝わって、しっくりくる気がします。
 ツアー暮らしを続ける自分にとって、ライブはまさに「相互作用」の現場です。「相互作用」によって生まれる何かが、自分にとっての「ライブ」だとも言え ます。それは、相手を受け入れ、共感を生み出すことによって、他者同士に気づきと変化をもたらす態度だと理解しています。音楽生活を通して、そのような態 度を試みることで、ほんの少しづつですが、確かに自分自身が変わり続けているという実感があります。

 ステージに上がるときは、ライブの絵をあらかじめ描き過ぎないよう心掛けています。柔らかい心を保ち、視界をひろげることで、その場のエネルギーを循環 させて集中力を高め、すべてと響き合い、導かれるように絵を描いてゆく。そんなイメージを大切にしています。
 ちょっと表現がきれい過ぎたかもしれません。実際の自分のライブの多くは、こういう文章がイメージさせるよりも猥雑でくだけた空気の中で行われています。特にソロでの弾き語りスタイルだと、そういった要素が強くなります。
 ホールではないライブハウスやバー、カフェ等、飲食ありの小さなスペースのお店で演奏する場合は、あえて曲順や構成をしっかりと決めず、なるべくその場 の空気を受け入れながら、ステージを進行してゆくように心掛けています。そういう場では、演奏中にアルコールを摂取することが多くなります。おすすめでき るスタイルではありませんが、適量のアルコールは気分をリラックスさせ、視界を拡げ、自意識からの開放をうながす効果があります。ただ摂取が過ぎると著し く客観性を失い、演奏能力が低下します。
 大抵の自分の弾き語りライブはリラックスした雰囲気の中で進行してゆきますが、その中でも、ぐっと空気がひきしまる瞬間がやってきます。それは前半のダ イアローグ(対話)を経て、中盤以降、モノローグ(独り語り)の時間帯に訪れることが多いです。
 その瞬間をうまくつかむことができれば、集中力はさらに高まり、インスピレーションがわき起こり、どんどん未知の高みに昇ってゆくような恍惚の瞬間が訪 れます。その過程はとてもクリエイティブな時間です。その場やお客さんとの「相互作用」による共鳴、共感の過程がなければこういう体験は生まれません。
 そんな瞬間を経て再び訪れるダイアローグの時間帯、あふれるような開放感、多幸感の共有。大きな拍手、手拍子、笑顔、歓声。まさにライブの醍醐味です。気持ちよくて勘違いしそうになります。
 ステージ上でインスパイアされ、開放に至るあの瞬間が、自分が最も万能感にひたることのできる場だと思います。ただ、それが行き過ぎると色んな意味でやばいなという自覚があります。

 仏教用語で「魔境」という言葉があるそうです。禅の修行中に経験した恍惚感、覚醒感の衝撃によって、その体験が絶対無二になり、自分が知っていること、 信じていること以外のものを受け入れられず、排他的になり、攻撃性をも伴ってしまう、そんな状態を指しています。その結果、長年の修行者や指導者の中に も、自我が肥大して、高慢、傲慢な性格を醸成してしまう人がいるようです。
 自分の知る限り、多くのミュージシャン、表現者は、この「魔境」の状態に共通するような恍惚感を体験することで、「傲慢」を醸成しているように思いま す。そういった傲慢さに対して自分が過敏になりがちなのは、自分自身の中にも、そのような心持ちが存在するからです。
 ファンの側からすれば、その傲慢さが、その表現者の魅力と背中合わせになっていたりする場合もあるでしょう。けれど、その傲慢さはやがて、他人を巻き込んだりしながら、最終的には自分自身を追いつめてゆくことになると思います。
 中国唐の禅僧だった臨済という人は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えているそうです。なるほど。 
 「突き刺せ」とか「殺せ」とか言う言葉はちょっと物騒な気もしますが、恍惚に入り過ぎた自分自身に対して、もう1人の自分がつっこみを入れ、自身を笑い の対象にできるような心持ちでいたいなあと思います。オレもボチボチ、あんたもボチボチ、人間みなボチボチ、そんな感じでいいんじゃないかと。
 なんか話がえらいところへ行ってしまってるような。でも、この話は次回に続きます。(続く)
ー2013年1月25日(金)

2013年1月2日水曜日

新年のご挨拶 明けましておめでとうございます。

オレは京都の実家で静かに正月を迎えました。年末年始は、少し落ち着いて、体験した出来事を反芻したり、さまざまに思いを巡らず時間を持つことができました。
 考えれば考える程よくわからなくなったり、次第にいろんなものが結びつきはじめて、ぼんやりと形が見えてくるような気がしたり。もっとスムーズに思考が 進んでくれないものかと自身にじれったくなる一方で、急いで答や結論を出すべきではないとも考えています。ジェットコースターに乗ってばかりでは、視界が 狭くて気づかないことがたくさんあります。焦らずゆっくりと。
 こういった時間の中で、また新しい曲が生まれそうな予感がしています。割り切れない思いの中から紡いだ言葉を、リズムとメロディーに乗せてゆく作業を今年も続けてゆこうと思います。

 6日(日)水戸市での藤井一彦(グルーヴァーズ)とのジョイントが今年のライブ始めです。一彦とは20年をこえる付き合いですが、2人きりでライブをや るのは今回が始めて。楽しみやなあ。今月は、MAGICAL CHAIN CLUB BANDと伊藤ミキオTRIOの東名阪ジョントツアーも控えてます。このツアーでは新曲もお届けできると思います。
 また弾ける日々が始まります。今年も、皆さんといい時間を共有できることを楽しみにしています。
ー2013年1月2日 

アメリカのコミュニティーFMに出演しました! facebookより

★アメリカのコミュニティーFMに出演しました!
アメリカ、イリノイ州のUrbanaという街にあるコミュニティFMの日本語ラジオ番組「ハルカなショー(HARUKANA SHOW)」に出演して、 MAGICAL CHAIN CLUB BANDのこと、ツアー生活のこと、被災地のこと、原発のこと、多様性と対話の可能性について等いろんな
話をしました。その内容がPodcastにて公開されています。
http://harukanashow.org/archives/996
実は「ハルカなショー」のパーソナリティーはオレの姉なのです。収録は京都の実家で行われました。いつもより低いテンションでまったりと、しかし、じっくりと語っております。よかったら聴いて下さい。
Podcastに添えられたオレの文章を以下に掲載します。

★リクオからのメッセージ
ツアーを続ければ続けるほど、日本は広いなあと感じます。時間の流れも、価値感も、景色も、風土も、言葉遣いも、場所によってさまざま。それが素晴らしいことなんだと思うようになりました。

僕はステージに上がる前に、ライブの完璧な絵をあらかじめ描かないようにしています。その場所でのライブが、双方向性であることを常に意識しています。1 人で演奏するときは、曲順もしっかり決めないし、曲のテンポ、アレンジ、歌い方、MC等が、その場の空気、お客さんのリアクション、その日の自分の心持ち 等によって、毎回変化することをよしとしています。その方が、場のエネルギーが循環して共鳴が生まれやすいし、毎回が新鮮で、飽きなくて楽しいんです。

音楽生活、特にツアー暮らしの中で、たくさんの人達と出会って、直接の会話を重ねる中で、以前より人の話を聞くのが楽しくなりました。皆それぞれに違った ストーリーがあるのが面白くて話のネタが増えるし、そのストーリーの中に、自分が少しでも参加していたりすると、やっぱり嬉しいものです。

「対話」「相互作用」「多様性」、この3つは、自分がツアー暮らしの中で学んだ重要なキーワードです。不寛容な空気が支配的になりはじめた今の日本に暮ら していて、この3つのキーワードの大切さを増々痛感しています。対話の姿勢を失わず、多様性を受け入れ、独りよがりならず、相互作用によって生まれる価値 を共有できる世の中であってほしいと願っています。