2014年11月12日水曜日

広島土砂災害の安佐南区で「新しい町」を歌って感じたこと

ソウルフラワーユニオン中川敬君との「うたのありか 2014」ツアーの最中、先週8日に土砂災害で甚大な被害を受けた広島の安佐南区を訪れ、地域の集会場で中川君と2人で地元の方々を前に出前ライブを演らせてもらった。

午後2時頃、安佐南区に到着したら、早速地元の方が各被災場所を丁寧な説明を交えながら案内してくれた。
被災の様子を実際に目の当たりにして、その規模と被害は自分の想像を超えていた。ここまで広範囲で深刻な被害状況であったとは、テレビやネットの情報だけでは実感できなかった。




凄惨な現場を多く目にして、3.11から2ヶ月後に東北の被災地に入って目にした光景と、そのときの何とも言えない気分がフィードバックした。
地元の方の説明では、被害を受けた一帯は、高度経済成長期以降に山を切り崩して建てられた住宅街で、住民は70歳以上の高齢の方が多いのだそうだ。
住宅街の道は、どこも車1台がぎりぎりと通れるくらいに狭く、入り組んでいた。山に向かう坂道は相当な急勾配で、高齢の方が暮らすには厳しい環境に思えた。
各被災場所を見て回って、この一帯は町づくりにおいて充分な計画性と安全性の配慮が足りなかったのではないかという疑問を持たざるえなかった。

案内してくれた地元の方は、70人を超える死者の数ではなく、その場所で無くなられた1人1人個人の死について、その顔が思い浮かぶように丁寧に語って聞かせて下さった。それは感情を押さえた静かな語り口だった。
30代でこの場所に越してきて、念願のマイホームを手に入れ、こつこつ働いて、ようやく子育てを終え、この地を終の住処として夫婦で70代を迎え、被災された方の姿を想像すると、自分がこの場で感じた疑問や割り切れない気持ちを言葉にするのは憚れた。

夜のライブでは、集まってこられる方の中に家をなくしたり身内や知人を亡くされた方がおられること等を想像して、選曲に気を配った。当日になって当初予定していて選曲からはずされた曲もあった。
集会場には、まさに老若男女たくさんの地元の方が集まって、会場内に入りきれない人達は会場の外で、演奏を楽しんでくれた。演歌、民謡、アニメソングを交えた普段とは違った選曲で、ライブは終始大盛り上がり、涙と笑いに満ちた一期一会になった。「満月の夕」を演奏中、集まった人達の表情を見ていたら、なんとも言えない気持ちがせまってきた。歌の力を感じずにはいられなかった。



今回の中川くんとのツアーでは、カンサス・シティ・バンドの下田卓さんが、東日本大震災の被災地復興を願ってつくった歌「新しい町」をカヴァーさせてもらっている。この歌は単なる「復興」を願うだけではなく、戒めと祈りを込めて町が新しい価値観で生まれ変わることを願った歌だと自分は解釈している。
https://www.youtube.com/watch?v=FYd6iLlBVZs
当初、この曲こそ安佐南区で歌うにふさわしいと考えていたのだけれど、現地を訪れ被災地を見て回った後には、この歌をこの場所で歌うことに少しの躊躇を感じた。その躊躇には根本的な問いかけが含まれていた気がする。

3・11以降、あれだけの大きな災害と事故を経て、戦後の経済成長がとても大きなリスクとツケを背負って成り立っていたことを、多くの人が自覚させられたはずだ。けれど、あれから3年8ヶ月以上が経過して、その自覚は再び薄れつつあるように思う。
安佐南区を訪れて感じたことの1つは、残念ながら、これから戦後の経済成長主義のツケがさまざまに返ってくることを覚悟しなければいけないのではないか、ということだ。せめて今後は、次世代のためにも、そのツケを増やさない方向に向かうべきだと思う。

ライブ後は、ボランティア、地元の皆さんと屋外でテーブルを囲んで、この日の炊き出しの芋煮と焼きサンマをいただき、焼酎のお湯割りをチビチビとやりながら、語り合った。
自分の隣に座った若者は災害後、東京の仕事を辞めて故郷であるこの地に戻りボランティア活動を続けているのだそうだ。これからは地元で暮らしてゆくつもりだそう。

この日の夜空にはミラクルムーン直後の素晴しい満月が輝いていて、皆がその満月を携帯で撮ろうとするのだけれど、その美しさの百分の一もおさめることができないでいた。’11年の5月、初めて被災地入りした石巻でも、街灯りが消えた中で、夜空に満月が輝いていて、皆で見とれていたことを思いだした。


土砂災害以降、安佐南区には述べ5万人を超えるボランティアの人達が集まったそうだ。受け入れ態勢ができていない中で、一度にたくさんのボランティアが集まり過ぎて、一時は混乱が生じたという話も聞いたけれど、日本にボランティア活動の意識が根付いたのは素晴しいことだと思う。この日の出前ライブも各地から集まったボランティアの人達よって企画された。
3・11以降、被災地でボランティア活動をする何人もの人達と出会ってきたけれど、彼らの中には地元の人達との出会いと交流の中で、その後被災地に移り住んだり、その土地で家庭を持った人もいる。
「新しい町」は、元々その町に暮らす人達だけでなく、他から集まった多くの人達とともにつくられてゆくのだろうと思う。

ー2014年11月12日(水)


2014年10月19日日曜日

藤井裕さんのこと

生き続けることは誰かを見送り続けること。
年齢を積み重ねるにつれ、この言葉が実感となりつつある。
最近は、旅立った人を想って感傷的になり過ぎることを自制しようとする自分がいる。多分その理由は色々で、まだうまく説明できそうにない。
会えなくなった人達のことを忘れずにいたいと思う。忘れてしまうことで、自分自身の何かが欠けてしまう気がする。あのニオイや佇まい、あの時の気分を覚えてはいても、具体的な出来事が思いだせなくて寂しい気持ちになることがある。もっと感傷以外の感情や出来事も思いだしたいのだ。あの人達のさまざまな姿が自分の中で、ずっと生き続けてほしいのだ。

再活動を始めたばかりの上田正樹とサウス・トゥ・サウスのメンバーであり、リトル・スクリーミング・レビューやラフィータフィーのメンバーとして忌野清志郎さんとも活動をともにしたベーシストの藤井裕さんが亡くなった。食道がんだった。

裕さんとは、自分がまだ大学生だった頃、石田長生さんの紹介で知り合った。自分の初の東京ツアーだった高円寺JIROKICHIのライブをブッキングしてくれたのは裕さんだった。そのライブでサックス奏者の梅津和時さんと知り合ったことが、自分のメジャーデビューの1つのきっかけになった。
自分の本格的なレコーディング初体験となった有山じゅんじさんのソロアルバム「聞こえる聞こえる」のレコーディングでのベーシストも裕さんだった。特に20代の頃は、裕さんと共演させてもらう機会が多く、勉強になることばかりだった。
音楽家・藤井裕のワン&オンリーの個性を支えていたのは、音楽に対してどこまでも真面目で真摯であり続ける姿勢と、その継続によって身につけられた極めて高い演奏技術だった。感性に頼るだけでなく、冷静に科学的にグルーヴをとらえることのできる人だったと思う。
精神面では、自分のナイーブさをいつまでも切り捨てることのない人だったとの印象がある。そういう姿は、人によっては不器用とうつったかもしれないけれど、自分が大切にする何かを最後まで守り通した人だと思う。

8月のお盆前、入院している裕さんを見舞いに有明の病院を訪ねた。相部屋のドアを開けて中に入り、区切りに使われていたカーテンを開けると、ベッドの上で上半身を起こし、頭にヘッドフォンをつけCDを聴いている裕さんの姿が目に入った。こちらに気付くと、裕さんは不意をつかれたような表情をした。その姿を見て、思ったよりは元気そうだという印象を持った。
傍らには何枚ものCDが置かれていて、ベッドの横には中身の入ったベースのハードケースが立てかけられていた。自分は裕さんにチェットベイカーとニーナシモンと自分の新譜のCDをプレゼントした。
サウス・トゥ・サウスの再活動に向けて既に数曲を完成させていて、これからさらにサウスのための曲作りを続けるつもりでいること等、裕さんは今後の活動について前向きに話して聞かせてくれた。病院の相部屋の狭いスペースの中でも裕さんの音楽生活は続けられていた。

見舞いにうかがう前は、何を話せばいいのかわからない気分だったけれど、会ってみれば予想以上に会話がはずみ、随分と長居してしまった。会話の流れの中で、10年くらい前に下北沢の飲み屋で裕さんと朝まで口論したことを思いだして、その話をしてみたら、本人はあまり覚えていない様子だった。
口論のきっかけは笑ってしまうような些細な出来事だったけれど、2人ともムキになって言い合いを続け、気付けば始発どころか朝の通勤ラッシュの時間になっていた(そんな時間まで突き合ってくれたお店のマスターに感謝)。2人でお店を出た時、朝日がまぶしかったことを覚えている。その頃には既に2人のわだかまりは解けていて、深酒したにも関わらず、裕さんはすっきりとした顔をしていた。多分、自分も同じような表情をしていたに違いない。
一回り年の離れた先輩と口喧嘩するなんて、なかなかないことだけれど、裕さんとは年齢を超えてそういうコミュニケーションが成り立った。それは、裕さんが対等な関係で自分と付き合おうとしてくれていたからだと思う。

「その時のことはよく覚えてないけど、多分そのときオレはリクオに対して悔しい気持ちがあったんやと思う」
下北沢での口論の話をした後、裕さんからこんなふうに言われた。裕さんから自分に対して「悔しい」という言葉を聞いたのはこれが始めてではなく、以前も酒の席でそんなことを言われたことがあった。その時は、尊敬する先輩の裕さんが自分を意識してくれていたことを意外に感じると同時に、少し嬉しくも思えた。一回り年の離れた後輩に対して、そういう気持ちを伝えることのできる正直さ、素直さを、裕さんはずっと持ち続けていたのだと思う。

病室を出る時、裕さんは不自由な体でわざわざエレベーターのある場所まで見送ってくれた。恐縮する一方で、まだ歩行も難しい状態だと聞いていたので、これだけ動けるまでには回復したんだと、希望を持った。
部屋を出てエレベーターに到着するまでの間、裕さんは自分に何度か感謝の気持ちを述べてくれた。そのときに、「また来ます」と伝えたら、「その前に退院してるわ」という言葉が笑顔と一緒に返ってきた。それが裕さんとの最後の対面になった。

9月の半ば、松坂でのサウス・トゥ・サウスのライブで、裕さんがベースを3曲弾いたという話を聞いたときは、本当に嬉しかった。裕さんは最期まで音楽とともにあり続けたのだ。
これからも裕さんのことはすぐに思い出せるだろう。あの低い位置でベースを弾く姿、あのグルーヴ、音色、あの声、あの笑顔、お酒をちょびちょびと飲む哀愁ある姿、嘘のない言葉。きっと、いつでも思い出せるだろう。

裕さん、ありがとうございます。
もう言い合いができないのは、やっぱり寂しいです。

ー2014年10月18日 ツアー先札幌のホテルにて

2014年9月17日水曜日

50歳の初夢に山下達郎さんが

50歳の初夢に山下達郎さんが出てきた。
夢の中で、達郎さんの自宅にご招待していただいた。
「以外と庶民的で質素な暮らしをされているんだなあ」
これがはじめて達郎さんの自宅を訪問しての感想だった(あくまでも夢の話ですよ)。奥さんが(夢の中での奥さんは竹内まりやさんではなかった)こちらの様子を見て何かを察したように、「この人(達郎さん)は音楽以外のことに対しては強いこだわりや執着がないんですよ」と自分に向かって柔らかい笑顔で話された。奥さんの話を聞いて「ああ、オレもそうかも」などと思った(繰り返しますが、あくまでの夢の中の話です)。
目が覚めてしばらくは、布団の中で不思議な夢の余韻を味わい続けた。

達郎さんと初めてお会いしたのは自分がCDデビューした直後だった。
自分が最初に契約したレコード会社エム・エム・ジー株式会社 (MMG) は、米ワーナー・ミュージック・グループ傘下として、アルファレコードの関連会社アルファ・ムーンとマザーエンタープライズ傘下のレコード会社マザーアンドチルドレンが合併し、新たにGARLANDレーベルを社内に発足させ、社名にそれぞれの頭文字を取って、’90年にスタートした(つまり、自分がデビューした年にMMGは発足した)。主な所属アーティストはTHE BLUE HEARTS、竹内まりやさん、そして山下達郎さんだった。
達郎さんはMMGの所属ミュージシャンであると同時に、アルファ・ムーンの設立から深く関わる会社の役員でもあった。自分はGARLANDの所属で、達郎さんとは所属レーベルが違っていたのだけれど、自分のデビューミニアルバムを聴いてくれた達郎さんから、一度会いたいと声をかけてもらい、MMGのオフィスでお会いすることになった。
緊張気味の自分に対して、達郎さんはとても気さくで多弁であった。ミニアルバムのことを褒めてもらえてとても嬉しかったし、勇気づけられたのを覚えている。達郎さんの話からは音楽に対する愛情があふれていた。

「君はなかなか売れないかもしれないけれど、長く続けてほしい」
そのときに達郎さんから言われたこの言葉を、今でも思い出すことがある。
達郎さんとはそのとき以来、一度も再会を果たせずにいる。オレのこと覚えてくれているかなあ。もう一度お会いする機会があればこう伝えたい。
「その節は、ありがたい言葉を色々とありがとうございました。お陰さまで50歳になっても、面白おかしく音楽活動を続けてます。これからもずっと続けていきます。達郎さんのアルバム『RAY OF HOPE』何度も繰り返し聴きました。」


2014年8月28日木曜日

「ネトウヨ」「サヨク」とレッテル貼りされる2人による議論 

以下は、自分がツイッターと同期させてFACEBOOKに投稿した記事と文章に対するHさんのコメント書き込みをきっかけに始まった、Hさんと自分によるFACEBOOK上での議論です。Hさんは、自分が社会的な記事を掲載したり、社会にコミットするような発言をした時に、よくコメント欄に書き込みをしてくる音楽業界の同業者です(実際にお会いしたことはありませんが)。
自分はHさんから「サヨク」とレッテル貼りされることがあり、Hさんの方は、おそらく「ネトウヨ」とレッテル貼りされることを自覚しておられるようなので、このようなブログタイトルをつけました。ちなみにオレは自分が左翼だとは思っていません。特定のイデオロギーから発言しているという自覚もありません。おそらくHさんも自分のことを「ネトウヨ」だとは思っていないのではと想像しています。
正直、この議論が対話として成り立っているという自信はありませんが、対話の道筋に至る何かのきっかけになればとの思いがあります。FACEBOOK上でのHさんとの議論は平行線をたどることが多いのですが、ぎりぎりのところで互いを記号化しないという信頼があることで、この議論が成り立っていると思っています。
今回のHさんとの議論を通して、あたらめて気づいたことは、特に3.11以降、自分がまず大切に考えてきたのは、「理屈」や「思想」よりも、他者との「共感」を試みようとする「態度」であるということです。そして、その「態度」を常に維持することの難しさも感じています。
長くなりますが、よければお付き合い下さい。

※このブログをアップした後もコメント欄でのHさんとの議論が続いたので、そん部分を8月30日に加筆しました。

まずは、議論のきっかけになった8月26日の自分の投稿記事と、それに添えらえた文章です。

関東大震災の朝鮮人虐殺から今のレイシズム(民族・人種差別)が見えてくる<加藤直樹氏インタビュー>
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/24170846.php
広島の土砂災害でも、ツイッター上で在日の人達や中国人が空き巣狙いをしているといったひどいデマが流れてる。


以下からが、この投稿を受けてのHさんコメントから始まった2人の議論です。

●Hさん
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらしたわけです。
混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を繰り返した戦後の「朝鮮進駐軍」もご参考下さい。
そして現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率が極めて高いという事実も。
いろいろな方向からの見方があることは忘れてはいけません。
それらの事実を互いに理解した上で、友好的であるべきと思います。

●リクオ
「朝鮮進駐軍」は、在特会などが随分前から拡散していたトピックですね。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したことは事実のようですが、4千人の日本人市民が「朝鮮進駐軍」の犠牲となり殺害されたなどという情報はひどいデマだと思われます。
いまだに信じて情報を拡散している人もいるようですが、ネット上でも多くの人達によって検証され、デマと判断されてますよ。

そもそも「朝鮮進駐軍」に関する文献など一つも存在しない。在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真もねつ造。その写真は、毎日新聞社提供サービス「毎日フォトバンク」が収蔵していて、写真に写ってる腰拳銃の男達は「朝鮮進駐軍」なる武装組織ではなく朝連の本部を捜索する日本の武装警察官です。
在日特権に関するデマも含め、こういう情報は調べればネット上でも確認できますよ。ただネットですべての”事実”や”真実”がわかるとは思いませんが。

そして、念を押しますが今回の広島土砂災害で在日の人達や中国人が空き巣をしたという事実はありません。
http://mainichi.jp/fea・・・/news/20140826mog00m040012000c.html
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警ー毎日新聞

●Hさん
朝鮮進駐軍はwikiにも詳しいですよね。その「名称」についての妥当性はともかく多くの悪質な犯罪があったことは事実です。
しかし、日本では、なぜ在日韓国朝鮮人だけが差別的な対象として捉えられやすいのでしょうか?インド人やアメリカ人やフィリピン人となぜ違う印象になるのか?
それは歴史的な経験や事実が我々の深層心理に空気のようなものとして残っているからではないでしょうか。
それを差別というのか、本能的防御というのかはわかりませんが、そういう深層心理が働いていることは確かだと思います。
現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率の高さは事実ですので、危ない経験をしたら気を付けようと思うのは、人間として自然なことだと思います。
もちろん事実が誇大化され集団ヒステリーになるのは良くないですが、火の無いところに煙は立たないことも認識しつつ、どう付き合って行くのか、お互いに考えて行けたらなあと思います。

●Hさん
若いころ、母親が「彼女連れてきてもいいけど韓国人はダメよ!」と言ってって、ずいぶん差別的だなあと思った記憶があります(笑)。
愛し合っていたらなんでもOKと思いますが、人ひとりが背負っている家族や歴史の背景ってのは、現実社会になるととてつもなく大きいんですよね。大人になるほど感じます。
素敵な音楽の前では、みんなそんなこと忘れられるんですけどね。

●リクオ
これですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮進駐軍
ウィキにも4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明らかにされておらず、在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真がねつ造であることが指摘されてます。ただ、ウィキも間違いやデマだらけなので、すべてを鵜呑みにしない方がいいですよ。ここで紹介されている『マンガ 嫌韓流』『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』からの情報も間違いやねつ造が多いと考えています。

終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化して犯罪行為に走ったことが事実でも、Hさんがコメントした「朝鮮進駐軍」なるものの犯罪、4000人の日本人が在日コリアンに殺されたというのは根拠のない悪質なデマでしょう。

在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのも間違いだと思います。在日コリアンの犯罪率が高いのだとしたも、彼らが置かれた境遇や歴史背景を無視して、その理由を彼らの資質や民族性に求めるのは、とても危険な思考だと思います。Hさんの言うところのそういった「深層心理」が集合し暴走することで、ファシズムが生まれ、ユダヤ人大虐殺のような歴史的悲劇が起きてしまったのではないでしょうか。当時のドイツ国民の多くが、ユダヤ人には虐殺されるべき理由があると考えていたのでしょう。

Hさんの言うように、ステキな音楽を通して、そういった偏見や差別がなくなることを切に願っています。音楽には、「差別」や「敵対」ではなく他者との「共感」をもたらす力があると信じてます。


●Hさん
私も在特会の動きは、やってる人たち自身のガス抜きに過ぎず、在日コリアンの問題解決の効果があるとは思いません。言動が品性に欠けるので伝わることも無いと思っています。
でも「朝鮮進駐軍」というのは、言い得て妙だなと個人的には思っています。勝戦国でないのに勝手にそう主張した彼の国の態度にはピッタリのネーミングと思います。いささか皮肉が効きすぎってぐらいです。
在日コリアンのほとんどが、戦後、自分の自由意思で日本に残り、または密入国したまま自国に帰ろうともせず、かといって帰化もせず日本に居座り続けて来たという歴史的背景を持っています。
敗戦した日本に対して「我々は強制連行されて嫌々ここにいるしかないんだ!」との嘘を実に巧妙に利用し、現在に至っています。慰安婦の嘘と同じ構図ですね。
「差別」さえも逆に利用してです。帰化しない方がメリットがある訳です。
大阪に住んでいた頃の在日コリアンの逆差別暴力の話はほんとうに辛いものがありました。

音楽の力で、誰かを癒すことは出来ると信じていますが、あくまでエンタテインメントを超えるものにはならないと思っています。
こんなに音楽が溢れていたって、ナチスどころかチベット人というだけで差別され殺される現代の民族浄化が隣の国で今もまさに起きています。そこに行って身一つで歌う覚悟があったとしても、残念ながら瞬殺されて終わりだと思います。若いチベット僧侶が自らの身体に火を点けて訴えても何もできないんですから我々の歌に何の力があるでしょうか?

でも、楽しいから音楽はやめられないっ!ですよね!

●リクオ
在日コリアンが日本にわたってきた要因は日本による朝鮮の植民地支配でしょう。当時の朝鮮人が日本国民であったという事実を忘れてはいけないと思います。
当時、日本側が、彼らを労働力、兵力として必要とし、日本に進行する行政計画を立てた時期もあります。それらがすべてが強制連行であったとは思いませんが、朝鮮の人達が、生きるため、喰うために、低賃金労働力として日本に流入せざる得なかった背景も考える必要があります。
多くの在日コリアンが戦後に帰国しなかった、できなかったのも、朝鮮半島の険悪な政治状況、祖国の荒廃、一家離散、生活苦等さまざな理由があげられます。在日コリアンの人達に対しては、元宗主国としての責任が日本にはあるのではないかと考えています。繰り返しますが、在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのは違うと思います。

在日コリアンの歴史背景等について、ここでこれ以上Hさんと議論するつもりはありません。とても、このコメント欄では語りきれないし、そこまでの時間をつくる余裕がありません。
このコメント欄でまず伝えたいことは、「『朝鮮進駐軍』なるものは、言えて妙も何も、言葉自体がねつ造であり、4000人の日本人が殺されたという事実は確認されていない。この点においてHさんは謝った情報を流している。」ということです。

Hさんがおっしゃるとおり、自分も音楽はまずエンターテインメントであると考えていますが、それを超えた存在にもなりうると実感してます。無力さも感じますが、少なくとも自分は音楽から「娯楽」以上のものを受け取ってます。


●Hさん
一日中音楽の仕事してますと、なんだかずーっと右脳使っているのか、仕事終わった後は逆に左脳というか言語を使いたくなりませんか(笑)?
リクオさんとの対話は、言葉を使う面白さが格別ですね!

最近、朝日新聞が慰安婦問題の誤報を認めましたが、こういうことって今後も在日コリアンを語る上で必ず起きてくる問題です。
ずーっと私も、日本が侵略してすまないことをしたとだけ教えられて信じて来ましたが、最近になって決してそれだけでは済まされない問題であることがさまざまな資料の検証からわかって来ました。
はたして、日本だけが悪かったのか?永遠に我々は気を使い、謝罪し続けなければならないのか?
それは、我々を必ずしも幸せにする考え方では無いと思います。
在日コリアンや韓国、朝鮮人をも幸せにする考え方では無いと思います。

お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれるのではないでしょうか。甘やかすことなく、甘えることなく。それが人間として対等で、お互いに誇り高くあるということでしょう。
歴史を語ることは、常にフィクションになってしまいますが、どのフィクションがより多くの人にとっての幸福となるのか?平和的なのか?ということを常に考えながら、我々は歴史を作って行かなくてはなりません。

在日コリアンの歴史については、GHQが戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけた占領時期の洗脳政策の流れを汲んだままの解説サイトも未だいくつかありますし(これはリクオさんの考え方と近いですね)、また、それに反する検証を行っているサイトもあります。もちろん、書籍でもさまざまな視点から書かれているものがあります。

例えば、私はこちらのサイトの認識に近いわけですね。
http://www.geocities.co.jp/WallS・・・/6199/zainiti_raireki.htm

同じ歴史的事実を元にしていても、これだけ見え方が違ってくるのが歴史の面白いところです。

その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。
広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。

どちらにも正義があり、裏には必ず悪もあります。それを認識し合うことが、対等であるということだと思っています。

●リクオ
「お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれる」「その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。」というHさんの考えに同意します。戦後の日本人の多くが「かつて日本が一方的に悪いことをした」ですまし、思考停止したことが、現在の反動や歪みをもたらす要因になっている気がします。

その後のHさんのコメントは「広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。」と続きますが、そう考えるのなら、Hさんがこのコメント欄で『朝鮮進駐軍』というデマを流したのも「極めて無礼なこと」です。

今、身内が占領期にGHQが行った占領政策を研究していることもあり、自分もその時代に興味を持ちはじめてます。生活や言論の側かれ見れば、占領期は武装解除が済んだだけの「戦中」だったのかもしれない。そして、その「戦中」の流れが今も続いている側面があるのでは、と考えはじめています。「多様な価値観や思考を受け入れられない」「排他的である」「全体で一方に流れやすい」という点において、最近は戦中や終戦直後の空気により近づきつつあるのかもしれません。

Hさんが紹介してくれたサイトにも目を通させてもらいましたが、視点が一方に偏り過ぎていると感じました。こういった情報の流し方も「戦中」の流れにある気がします。イデオロギーから抜け出せずに、強制連行の有無の2択にばかりこだわって議論していたら、事実や本質にはたどりつけないと思います。「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします。

Hさんが言う「人間として対等である」ためには、相手の立場を想像し、違いも含めて「共感」に至る態度が必要だと考えます。特に3.11以降、自分が「理屈」や「思想」よりもまず大切に考えているのは、こういった「態度」です。難しいですが。
Hさんは左脳ばかりでコメントを書かれているのかもしれませんが、「意見や立場の違う他者との共感の試み」には「右脳」の活動も必要と感じます。

※これ以降は8月30日に追加

●Hさん
どうもです!
そもそも私がここに書き込もうと思ったのは、シェア元の文章が我々日本人に対して「無礼」だと感じたからです。事の発端が朝鮮人の混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したことにあるということが、一切書かれていない。それを書かずして、日本人のレイシズムだけを悪と書くのは誠に卑怯です。許されるものではありません。それを安易にシェアするリクオさんも同じくです。・・・もっと見る

●Hさん
もし仮に、リクオさんが「共感の試み」をされているなら、私の言うことも充分ご理解頂けると思いますが。

●Hさん
私は、共感するためにこそ、多様な視点を提示させて頂いておるわけですよ~。

●Hさん
日本は、そもそも大昔から多様な価値観や思考を受け入れてきた国民でした。
世界で初めてレイシズム、人種差別を無くそうと世界に訴えたのも、日本です。
それは、有色人種がずっと差別されて来たこととの戦いです。・・・もっと見る
●リクオ
Hさんのシェアの文章に対する受け止め方、憤りの理由を、ある程度理解しました(事の発端が一部朝鮮人による犯罪、暴動であったとして、その暴動が起きるに至った背景を考える必要があると思いますが)。オレはシェアした文章が「卑怯」だとは感じませんが、そのように受け取る人がいることもわかりました。

ただ「卑怯」だと感じたからデマを流していいことにはなりません。何度も書きますが、終戦直後の在日コリアンの一部が犯罪を犯し、日本人を恐れさせたことが事実であっても、「朝鮮進駐軍」なるものが4000人の日本人を殺したという事実は確認されていません。ねつ造はネーミングだけではありません。

Hさんがおっしゃる通り「共感するためにこそ、多様な視点を提示する」ことがとても大切だとオレも考えます。さまざまな視点を謙虚に受け止めるよう心がけたいと思います。
先のコメントにも書きましたが、因果関係を一方だけの責任にして思考停止することの危険性を感じています。多分、アメリカの戦争責任という点においてはHさんと共通する考えがあるように思います。でも、ここでは、もうその話はやめましょうね(笑い)。

これも繰り返しになりますが、「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします(その逆もしかり)。イデオロギーありき、前提ありきの思考から自分が完全に逃れているとは思いませんが、そうありたいと思います。

このコメント欄での議論はそろそろ終わりにしましょう。言いたいことを言い合うだけでなく、互いの言葉をしばらく受け止める時間も大切だと思います。

2014年8月24日日曜日

「甘っちょろい」言葉ー終戦記念日のツイートから考える

8月15日の終戦記念日に、以下の言葉をツイッターでつぶやいた。

単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日 

ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。

「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」

「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」

「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」

一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。

2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。

けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。

3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。

いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。

自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日

2014年8月5日火曜日

相馬のMさんからのメール

福島県相馬市・南相馬市発信のフリーペーパー「そうま・かえる新聞」最新号に寄稿させてもらった文章を、許可を得てブログに転載させてもらいます。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp


2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
 相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。

リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。

相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。

2014年7月25日金曜日

ブログ「大型店のせいで商店街が潰れたというくだらない同情論はやめにしたい」と「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」を読んで

以下のブログを読んで、異議を唱えたくなってしまった。
http://kasakoblog.exblog.jp/22226966/

この人のブログ、何度かFBでシェアされているのを見かけたことがあって、いずれも興味深いテーマだったので、読ませてもらっていたのだが、同意できる部分もありつつ、その語り口と内容に対して、常に違和感が残った。今回のブログも、さっきFBでシェアされていたのを見て、読ませてもらったのだが、正直に言うと、読んだ後に少し腹立たしい気持ちになった。

「もういい加減、商店街というビジネスモデルが崩壊していることを、きちんと理解したらどうか。」
「商店街同情論者は、CDが売れないのにCDを買ってと嘆くミュージシャンや、1000円理髪店を不衛生だとナンクセつける旧理髪店とか、いりもしないのに作ってしまったがために、なんとしてでも再稼働したい原発推進派とまったく同じ」
「潰れるものは潰す。衰退するものを無理に助けない。」

まず、以上のような尊大で切り捨てるような物言いに、いらっときた(ちなみにオレは原発推進論者ではありません)。けれど、こういう明快な物言いにこそ納得して喝采を送る人が多いのだろう。


自分は、商店街や個人商店には、これからも大切な役割があると考えている(もちろん、時代に対応してゆく必要はあるけれど)。自分のような、草の根のネットワークを頼りにフェイス・トゥ・フェイスで活動しているツアー・ミュージシャンにとっても、地方の商店街が廃れ、街が空洞化してゆて行くことは、決していいことではない。
ブログを読んで、個人の利害を超えて、街の活性化や人のつながりを大切に考えながら、地方の街で個人商店を続ける知人達の顔が思い浮かんだ。自分の音楽活動は、そんな人達によっても支えられているのだ。

2000年に、大型店の出店調整が可能だった大規模小売店舗法(略称「大店法」)が廃止され、出店規模の審査をほとんど受けない大規模小売店舗立地法(略称「大店立地法」)が、あらたに立法化されたことで、大型店の出店は事実上自由化された。
大店立地法が立法化されるにあたっては、米国からの圧力にかなり影響されたようだ。商店街が廃れてゆく背景には、こうしたグローバリズムの影響も存在する。かっての大店法が、結果として商店街の競争力を奪っていたとはいえ、商店街の衰退を、商店を営む個人だけに責任を押し付けるのは違うと思う。
大店立地法施行後は、シャッター街に歯止めが利かなくなる地域が続出した。自分は、ツアー暮らしの中で、各地でその状況が進行してゆく様を目の当たりにしてきた。10年以内の間に一気に商店街が廃れていったという印象がある。

商店街が廃れるということは、街が死んで行くということだ。つまり、人々が集い、繋がる路上がなくなってゆくということだ。面と向かっての偶然の出会いの場所が奪われてゆくということだ。
自分が愛した多くの音楽は、街から生まれたストリート・ミュージックだった(都会だけでなく地方の街も含む)。自分は今、その連なりの中で音楽活動を続けているという自覚がある。街と音楽は繋がっているのだ。
街があって、バーやカフェ、ライブハウス、CDショップが存在し、そこに人々が集い、出会い、情報を交換し、その中で自分のようなツアー・ミュージシャンに演奏の「場」が与えられるのだ。1店舗だけでは厳しい。いろんなお店が集うストリートが必要なのだ。その横の繋がりの中で猥雑な「場」が生まれる。
個人商店が元気で、街が活性化していると、草の根のネットワークや、口コミが生まれやすい。今の時代でも、自分のようなツアー・ミュージシャンの活動に、口コミは重要なのだ。
人口が数万人以下をきる市や町に、ライブハウスがないのは仕方がないとしても、商店街は必要だと思う。商店街が廃れると、地域の人々の繋がり、コミュニティー、地域の特質が失われて行くことを実感している。これは、グローバリズムの進行が、むしろ多様性や選択肢を奪ってゆく一例のようにも思う(念のために、グローバリズムが一方的に悪だと言いたいわけではない。善悪ではなく、それを受け入れざるえない状況も存在するかと思う)。

このブロガー氏が語るように、確かに時代の変化への対応は必要だろう。けれど、新しいものばかりが善であるはずがない。
過疎地に商店街が成り立たないのは理解できるけれど、そもそも地方が過疎化してゆく状況や街のドーナツ化減少を、そのまま仕方がないと受け入れてよいのだろうか。筆者の「潰れるものは潰す。」という物言いはあまりにも強引で、浅はか過ぎる。


このブロガー氏は以前にも、「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」( http://kasakoblog.exblog.jp/22057487/ )というタイトルのブログで、同じような調子で「CDなんてもはや死語に近い」と切り捨てていて、寂しい違和感を持ったのを覚えている。
永遠に続くビジネスモデルは存在しないし、今後’90年代の頃ようにCDが売れることもありえないだろう。けれど、そんな簡単に新しいビジネスモデルに舵を振り切ってしまってよいのだろうか。

ダウンロードにはないパッケージとしての良さや、MP3とは違う音質がCDやアナログレコードに存在していることも確かだ。音楽からアナログ文化が消えてゆくことのダメージも大きいと感じる。切り捨てようとしている部分に、これまで積み重ねられた音楽文化の大切な要素が含まれている事も知るべきだ。ただ時代の流れを受け入れるだけでなく、受け継がれたものを自覚的に守ることによって、未来に向けて育まれてゆくものも存在する。
ブログの筆者がそのことを全面的に否定しているとは思わない。けれど、そういった音楽の豊かさを、「実感としては」知らないのではないかという疑問が残る。新しい時代の中で、選択肢の幅がひろがったつもりでいても、実際には、若い世代の音楽好きやミュージシャンの中には、普段はMP3音源しか聴いていない、レコードの音をじっくりと味わったことがない、真空管の機材や楽器を使ったことがない、という者が相当数存在しているようだ。聴いたり弾いたりした体験がないから、その必要性すら特に感じない。それは、選択肢を失っているのと同じことではないだろうか。

自分は、CD、レコード、ダウンロード配信、YouTubeそれぞれが共存できる状況が望ましいと思う。話を戻せば、同様に商店街とショッピングモール、個人店と大型店が共存する方向へ向かうべきだと思う。時代に対応できない個人商店が出てくるのは、ある程度は仕方がないことかもしれないけれど、やはりシャッター街は、その街で暮らす人達にとっても望ましくないと思う。同時に、地方の商店街に大きなダメージを与えた「大店立地法」が本当に望ましい立法であったかも検証する必要があるのではないだろうか。これはTPPにもつながる問題だと思う。
つまり、選択肢の幅と多様性を維持するべきだというのが自分の考えだ。このブログの筆者には、利便性と引き換えに失うものや、多様性に対する認識が欠けていると感じる。
「何を手にして、何を失おうとしているのか」そういう自覚を持って、新しい時代に望みたいと思う。


このブロガー氏の意見にはうなづける部分もある。一面の事実を語っていると思う。けれども、それはあくまでも一方から見た、一面の事実に過ぎない。そのことに対する自覚のなさからくる傲慢、尊大な語り口こそが、最も自分が反発を感じた部分だと思う。
ネット上には、他者を慮ることのない一方的な意見や情報があふれている。その単純さ、明快さ、浅はかさこそが、読み手を引きつけるのだろう。より強く、偏った物言いをした方がアクセス数が増えることで、どんどん表現がエスカレートしてゆくという傾向も感じる。そういった送り手と受け手の共犯関係が、フラットな思考を奪い、「事実」や「真実」をどんどん遠ざけているのだと思う。これは、自分自身への戒めの言葉でもある。

ー2014年7月25日(金)


2014年7月21日月曜日

振り返り、思い出し、考える時間 ー いわき市と水戸市を訪れて

週末は、福島県いわき市、茨城県水戸市の常磐線沿い2ヶ所の街をツアーした。どちらの街も10数年前から定期的にツアーで訪れている街で、被害の大きさに違いはあるけれど、どちらも東日本大震災と福島第1原発事故によって被災した街だ。

いわき市club SONICのライブでは、オープニング・アクトだった地元バンド、アブラスマシのステージにぐっときた。バンドのVOはSONIC店長・三ケ田君。3・11以降、あらためていわきで暮らしてゆくことを決意した彼の思いが、歌を通して伝わった。その歌には彼の思いだけじゃない、彼が回りから受け取ったさまざまな思いがつまっているとも感じた。音楽表現はその人だけのものでなく、いろんな魂が宿ってなりたつものなのだとあらためて感じた。

打ち上げでは三ケ田君やソニックのオーナーSさん、南相馬からフリーペーパー「そうまかえる新聞」を抱えて駆けつけてくれたY君(「そうまかえる新聞」最新号に寄稿させてもらいました)らと、音楽、原発のこと等いろんな話をした。自分が福島原発のことを意識するようになったのは、多分事故が起こる5、6年前のこと、ツアーでいわきを訪れた際、三ケ田君に教えられたことがきっかけだった。福島第1第2原発が東京電力のものであること、東北で暮らす人達のためではなく関東圏に送電するための発電であること、老朽化していて危険だと言われている事など、自分はそれまで何も知らなかった。

SONICのあるいわき駅周辺は福島第1原発から45キロ程の距離。11年3月15日に第1原発で2度目の爆発があったとき、市からは、外出を控え部屋の窓わくにガムテープをはるように等の指示があると同時に、市民に対してヨウ素剤の支給が行われたそうだ。街のライフラインが断たれることで、市民は情報を入手できず、大きな不安にかられていた時に、このような指示があったことで街はパニック状態に陥った。ヨウ素剤は副作用が強く、あわててそれを飲んで体調を崩した人もいたそうだ。
3.11以降、いわきには多くのミュージシャンや著名人が支援のためにやってきた。けれど、被災した地元の人達は、彼らとの間に意識、感覚の違い、溝を感じることも多かったそうだ。
たとえば、ある映画監督は、いわきに講演に来て、地元の人達に対して、すぐにもいわきから避難するように訴えた。その講演を聞いていたいわきの知人は、自分が責められている気持ちになったと同時に、こちらの状況を考慮しない強い話し振りに違和感を抱いたそうだ。信じた道を突き進み、行動力ある人間の中に存在する独善と傲慢が、3.11直後の状況の中で、地元の人達の心をかえって傷つけてしまうこともあったようだ。

これらは、11年の8月にいわき市を訪れたときに地元の人達から聞いた話だ。今回、いわきに戻ってくることで、3.11以降、何度がいわきを訪れた中で、地元の人から直接聞いたさまざまな話、さまざまなドラマを思い出した。それだけ忘れてしまっているということでもある。



club SONICのフロア入り口の壁一杯に張り付けられた写真の数々。

いわき市の翌日、茨城県水戸市Blue Moodsでのライブは、地元のイベンター集団「地元でライ部」の主催だった(集団といってもメンバーは4人)。ここ数年、水戸にツアーで訪れるときは、いつも彼らがライブを企画してくれている。
この夜のライブの盛り上がりは、これまでのイベントの積み重ねによるところが大きい。企画自体が、地元の人達に定着してきていることを感じた。継続は力なり。次回の「地元でライ部」企画は、11月Blue Moodsでの山口洋ライブ。皆さん、ぜひ。

「地元でライ部」代表の甲斐くんは、家族で居酒屋を営んでいるのだが、震災によって建物がダメージを受け、再オープンまでに時間を要した。地産地消が売りだった食材も、放射能の影響で一時期、茨城産で通すことができなくなってしまった。
震災直後は水戸市もライフラインを断たれ、食料が不足したため、甲斐くんのお店は、蓄えていた食材を地域の人達に提供し続けたそうだ。
ライブ会場のBlue Moodsのマスター・榎さんは、震災後しばらくは、ライフラインを断たれたままの近郊の街に、車で飲み水と食料を運び続けたそう。この日の打ち上げでは、榎さんから、震災後しばらくして、津波で壊滅的な打撃を受けた三陸地方の沿岸沿いの街へ、義援金を持って訪れた時の話を聞かせてもらった。

被災した街の人達と話していて感じることの一つは、地元に対する思いの深まりだ。彼らは3.11以降、地元で暮らしてゆくことを選択しなおしたのだ。それと同時に、彼らは地元を超えてのネットワーク作りにも積極的だ。震災後、復興支援のため多くの民間人がボランティアで被災地に入り、地元の人達との交流を深めたこともネットワーク作りにつながった。(念のために、自分は地元に残ることが正しいとか美しいと言いたいわけではない。有事の際に、地元に残ることも、出て行くことも、それぞれの選択が尊重されるべきだと思う)。

そうした地域に根ざした視点からとらえる原発問題と中央都市からとらえる原発問題には、意識の隔たりを感じる。都市部では、放射能に対する恐れが極端に増幅される傾向が強いように思う。それによって、放射能や原発の安全性以外の、中央による地方の支配、搾取、地域コミュニティーの分断といった原発の抱える構造的な問題が見逃されがちな気がする。
原発は稼働停止になれば問題が解決するわけではない。廃炉に向かうにしても、原発との付き合いはこれからも長く続かざるえない。イデオロギーや政治的立場を超え、いくつもの世代をまたいで、ずっと向き合い続けてゆかなければいけない問題なのだ。

今回のいわき市、水戸市の2ヶ所ツアーは自分にとって、3.11以降を確認したり、振り返る機会にもなった。前を見るばかりでなく、振り返り、思い出し、考える時間の大切さも感じている。
−2014年7月21日

2014年7月17日木曜日

小学生時代の差別体験から考える

 ★小学生時代の差別体験から考える

自分が生まれ育った京都市の学区内には部落民が居住する同和地区が存在し、各クラスにその地区で暮らす生徒がいた。学校の授業では同和教育が行われ、差別問題に対する意識は高い地域だったと思う。
学内には在日コリアンや華僑の生徒も存在した。在日コリアンの生徒のほとんどは通名を使用し、在日であることを公表していないことが多かった。在日であることが学内でも噂になり、自然にそのように認知されたり、後にカミングアウトする生徒もいた。在日の生徒の中には、在学中に何度も改名する者もいた。
自分が育った街は、差別問題に対する意識が高い地域である一方で、人々の間には、社会のマイノリティーや特定の民族に対する差別意識も根強く残っていた。

幼い頃、回りの大人達から「同和地区はガラが悪いから行ってはいけない」とよく言って聞かされた。クラスには同和地区で暮らす仲の良い生徒がいたにも関わらず、自分がその場所に足を踏み入れることはなかった。怖かったのだ。同和地区で暮らす生徒も、進んでその地区に自分を誘おうとはしなかったように思う。学校では仲がよくても、互いに超えられない一線が存在していた。
同和地区の生徒の親の中には、教育を受けられなかった故に、しっかりと読み書きのできない人もいた。そういった家庭環境のせいで、その地区では学校の授業に遅れがちな生徒が目立った(一方で成績優秀な生徒も存在した)。同和地区の生徒達が学校の授業の後、地区内にある隣保館(りんぽかん)という社会福祉施設に通い、学習のサポートを受けていたのを覚えている。
隣保館に通う生徒達の話を聞いていると、そこは生徒や地区の人達が寄り集まる楽しげな場所のようにも思えた。「どうやらその地区には、自分が暮らす地域にはないコミュニティーが存在するらしい」そんなことを子供心に感じ取っていた。そして「その場所に行けば自分は『よそ者』になる」ということも、はっきりと意識していた気がする。自分は子供の頃から寄る辺無さのような感覚を抱えていたので、その場所に存在するらしい「繋がり」に対する「羨ましさ」も感じていた気がする。偏見や差別は、そういった意識の中からも生まれるのだろうと思う。

小学4年生の頃、生徒の間で頻繁に使われるようになった言葉がある。「チョンコ」「チョーセン」といった差別用語だ。在日コリアンの生徒に対してだけでなく、気に食わない相手全般、あるいはいじめの対象になっている生徒に対して、さかんにそれらの言葉が投げつけられた。
同和地区の生徒もそれらの言葉を好んで使っていたのを覚えている。「差別されている側が、さらに差別する対象を見つけようとする」というやるせない構図が幼い子供の間にも存在していた。
自分は当時、クラスの番長的存在の生徒に逆らったことから、彼と回りの取り巻きからイジメの対象にされ、頻繁にそれらの言葉を投げつけられていた。今思えば、「チョンコ」「チョーセン」と呼ばれることを屈辱に感じていた自分の心の中にも、既に差別と偏見の意識が存在していたように思う。
こういった差別用語と差別意識を最初に子供達に植え付けたのは、回りの大人達だった。子供達は学校では同和教育を受け、差別はいけないことだと教えられる一方で、実生活では回りの一部の大人達の差別意識を汲み取り、それに影響された。

あれから40年近い歳月が流れ、今ネット上では、自分の考えや立場の違う相手を「在日」だと決めつけて攻撃したり、侮蔑や揶揄の意味合いを込めて、自分が小学生の頃に投げつけられたのと同じ「チョンコ」「チョーセン」といった言葉が使われるのを目にするようになった。こういった動きは、ネット上だけでなく路上にも広がり始めた。
差別意識を持った憎悪表現である「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」の存在を自分が認識するようになったのは、ここ2、3年のことだ。そういう状況に応じて、「レイシズム」「レイシスト」という言葉が浸透し始め、ヘイトスピーチやヘイトデモに抗議するカウンターの行動も盛んになった。
世の中の排外的な空気が、日本で暮らすマイノリティーや特定の民族に対する差別や偏見、憎悪を増々助長しているように感じる。近隣国の反日政策や覇権主義が、こういった動きを広めるきっかけの一つになっていることも確かだろう。

差別や憎しみの対象は、人々が抱える漠然とした不安や鬱積した思いのスケープゴードとしても存在しているように感じる。在日特権の存在をヒステリックに訴えヘイトスピーチを繰り返す人達の無意識の中には、寄る辺無さを抱えていた小学生時代の自分が同和地区の人達に対して抱いた「羨望」や「恐れ」と共通する感情も存在するのかもしれない。ただ、自分が小学生の頃に遭遇し体験した差別と現在のネット上やヘイトデモで見られる差別のあり方には、大きな違いも感じる。現在のヘイトスピーチで使われる侮蔑の言葉は度を超えていて、それらを列挙するのが憚れるほどだ。

小、中時代の自分は、学校生活を通して、差別されている当事者である同和地区の人達や在日コリアンの人達と毎日顔を突き合わせて生活していた。同和地区の生徒の中にも、在日の生徒の中にも仲の良い生徒が存在して、放課後も彼らと共に遊んで過ごした。自分以外の生徒達も多分、同和地区や在日の生徒達との生身の付き合いを通して、彼らも同じ血の通った人間であることはある程度実をもって感じていたと思う。
互いに超えられない一線や差別意識は存在しても、こうした関係性の中て身につけた世間感覚や、生身同士の関係性がもたらす実感が、差別意識や差別的言動に一定の歯止めをかけていた気がする。現在に比べればの話だけれど。
現在のSNS上での罵詈雑言や路上でのヘイトスピーチには、そうした「歯止め」がなくなってしまっていると感じる。それは生身の他者との関係性の少なさが一因ではないかと考える。

日常世界でのリアルな人間関係や世間感覚、現実感覚の希薄さが、他者に対する想像力と「歯止め」を奪い、憎むべき対象のイメージを固定化させ、個人の記号化をもたらしているのではないか。そうでなければ、あれほどまでに人間としての尊厳を徹底的に汚すような罵声を相手に浴びせることはできないと思う。
そうした人間同士がネット上で出会い、憎悪と差別意識によって繋がることで承認し合い、自分を保っているのだとしたら、とても不幸なことだ。

ヘイトスピーチ、ヘイトデモに抗議する言動の中にも、相手に対する記号化が行き過ぎているのではないかと感じることがある。現場にいる人間からは甘っちょろいと言われるかもしれないけれど、目には目をのやり方には、自分はやはりなじめない。こういう状況を見るにつけ、社会の分断化は一層進みつつあるのではないかと感じる。
1人1人の個人が自身と向き合う作業を積み重ねてゆくと同時に、1人1人の生身の他者との出会いを丁寧に積み重ねてゆくことの大切さを増々感じている。
ー2014年7月17日(木)

2014年7月11日金曜日

BEGINのスタンスと自分のスタンス

先月、大阪のライブハウスJANUSにて開催された「大阪うたの日コンサート2014」の打ち上げの席で、その日の共演者だったBEGINのメンバー・島袋優君から聞いた言葉が、ずっと心に残り続けている。

「大阪うたの日コンサート」は、BEGINの3人が2001年から沖縄で始めたフェス「うたの日コンサート」に賛同する形で、大阪で07年から開催されるようになった。自分はホスト的な役回りで、毎回参加させてもらっているのだけれど、BEGINがこのイベントに参加するのは今回が初だった。
沖縄ではかつて、歌い踊ることが不謹慎だと言われた時代があり、それでも沖縄の人達は我慢できずに山の中や防空壕の中で、こっそり歌い踊っていたのだそうだ。そんな背景があって、沖縄での「うたの日コンサート」は、沖縄で戦争が終結したとされる「慰霊の日」の翌日6月24日を、「うた」に感謝して皆でそれを祝う「うたの日」として開催されている。BEGINの「大阪うたの日コンサート」への初参加によって、自分は例年以上に「うたの日」の意味合いを意識してステージに上がった。
この日のもう一人の共演者は憂歌団の木村充揮さん。3組は互いにさまざまな縁で繋がっていて、共通言語の多い者同士。けれど、こうやって3組が同時に集まって共演し、がっつりとセッションする機会は今回が初めてだった。
チケットは早くに完売。お客さんの期待値が高く、いいイベントになるための条件は十分に揃っていた。自分達がステージに上がった時は既に、客席が出来上がった状態。こういう環境で演奏できることを幸せに感じた。「うた」の自由さ、「うた」の楽しさを皆で共有し合う、とても素敵なイベントになったと思う。

ライブの盛り上がりのまま、打ち上げもとても楽しい宴になった。2次会では、BEGINの優くんとカウンター席で隣同士になったので、自然2人で話をする時間が多くなった。
かなり夜が更けた頃に、アホな会話がマジメな方向に移行し始めた。どういった話の流れでそうなったのかは覚えていないけれど、ミュージシャンが社会的、政治的メッセージを歌に込めたり、そういう発言をすることに関して、優くんが自分の考えやBEGINとしての立ち位置を話し始めた。
「BEGINは歌や発言で反戦や基地反対を訴えることはしないと決めている。世の中の人が、戦争をやる気がなくなるような音楽をやりたいと思っている」優くんはそんな内容の話をしてくれた。
そうしたBEGINの思いは、彼らの今までの活動を通しても感じていたけれど、メンバーの一人から直接話して聞かされることで、よりその思いを受け止め、考えさせられる機会になった。じゃあ、自分のスタンスはどうなのか?

「大阪うたの日コンサート」の前の週には、同じ大阪で「100万人のキャンドルナイト @OSAKA CITY 2014」という野外イベントに参加させてもらった。「100万人のキャンドルナイト」は、夏至と冬至の日の夜8時から10時までの間、電気を消してスローな夜を過ごそうという運動で、10年程前から始まり、今では日本各地で開催されている。自分は大阪でのキャンドルナイトの常連出演者ということもあり、イベントに対しては自分なりの思い入れを持っていた。


この日のステージでは、あえてメッセージ色の強い「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」という曲を歌った。元々この歌は「原発は自分自身でもあった」という思いから生まれていて、いわゆる「反原発」とは一線を画する態度で曲を書いたつもりだったけれど、自分の思いとは違うとらえ方をされることも多かった。ライブでこの曲を歌う時には、他の曲にはないプレッシャーを毎回感じた。
今回のキャンドルナイトでは、ライブで頻繁には歌うことのない「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」を、あえて選曲に入れることにしたのは、無数のロウソクに囲まれ、都会のノイズと静けさが同居する空間の中で、この曲を「反対」するための歌ではなく、「願いと問いかけの歌」としてやわらかく響かせたいと思ったからだ。
この日のお客さんにこの曲がどう伝わったのか、正確にはわからない。ただ、この曲を歌ったときにはやはり、それまでとは違う緊張感を客席から感じ取った。選曲に対する後悔は全くなかったけれど、「こういう歌を歌ったら来年はもうこのイベントに呼んでもらえないかもしれないなあ」との思いはよぎった。
この曲を舞台袖で聴いていたイベントプロデューサー的立場のスタッフから後で聞いた話だけれど、自分がこの曲を歌っていた時、彼は隣で一緒に聴いていた広告代理店の企画代表者に「スポンサー関係は大丈夫ですか?」と確かめたそうだ。その答は「大丈夫です」だったとのこと。

翌週に参加した「大阪うたの日コンサート」では「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」は歌わなかった。歌おうという気が起こらなかった。
ステージ上でBEGINと木村さんが生み出す、あたたかく自由でオープンな空気感は素晴しかった。自分もその空気に乗っかって、実にハッピーな夜を過ごさせてもらった。会場中の誰もが笑顔だった。こんな空気の中で戦争を起こそうなんて気持ちは起きようもない。


社会にコミットする発言をしたり、何かに異議をとなえると、ネガティブな空気も呼び寄せてしまうジレンマを感じることがある。自分はそれほどでもないけれど、3・11以降、もっと知名度のある他のミュージシャンや表現者がそういう発言をすることで、レッテルをはられ、敵視され、ののしられている様をSNS上などでよく見かけるようになった。そういう状況の中に身を置きすぎると、視野が狭くなり、偏狭な相手の方に本人のメンタリティーが近づいてゆくように感じられることもあった。気が滅入るし、めんどくさいし、自分ももうそういう発言はやめて、構わずこちらで好き勝手に楽しくやっていればいいんじゃないかとも思う。
けれど、世の中のやな空気、不穏な動きに対して黙していることは、結果的にそれらを受け入れることになってしまうんじゃないかとの思いもある。このままほっておくと、排外的な空気がひろがり続け、自由を奪われる世の中になってしまうのではとの危機感がある。社会的、政治的な発言、表現はしないというBEGINのスタンスも理解しつつ、自分はやはりこれからも時々は社会に異議をとなえたりするだろう。その際は伝え方に気を使いたい。「正義と真実は我にこそあり」という押しつけや決めつけの態度はさけようと思う。正否だけで物事をとらえるのでなく、起きている事象の本質を見据え、問いかける姿勢を忘れないようにしたい。

BEGINの3人は随分前に、自分達の役割とスタンスを見つけたのだろうと思う。その役割にたいして忠実であり続ける姿には誠実さを感じる。オンステージでもオフステージでも彼らと一緒にいると、とても心地良い。その人柄がそのまま音楽に反映されているように感じる。これからも何度も共演させてもらいたいと思う。機会があれば、酒を交わしながら彼らの思うところをさらに深く聞かせてもらい、意見を交換しあってみたい。

当然ながら、自分には自分のやり方がある。大抵はハッピーにやるけれど、時には問題提起し、場の空気を壊し、他者とぶつかり合うことも辞さない、そういう態度も保ち続けようと思う。そう言ってしまうと、めんどくさくも感じるなあ。まあ逡巡もしながら、しなやかさを失わずにやってゆくつもりです。
2014年7月11日

藤沢「サウサリート」20周年パーティーにて

7月7日FaceBookに投稿
一昨日は、6年前に藤沢に越してからずっとお世話になっているミュージックバー「サウサリート」の20周年パーティーに参加。地元の15人のDJが深夜までお皿を回し続け、宴は深夜まで続きました。
そして、昨日はこれまた地元のバー「ロケット・デリ」にてサウサリートの「20周年シークレット・パーティー」が開催されました。これはマスターのジョージさんには内緒で企画された、お客さん&ジョージさんの奥さんからのサプライズ・プレゼントでした。

倉慎介&羊毛(羊毛とおはな)、羊毛と玲子(マスターの奥さん)、キム・ウリョン&オカザキエミのライブでパーティーは多いに盛り上がりました。オレもウリョンとエミちゃんのライブに飛び入りして1曲歌わせてもらいました。
鎌倉のお菓子屋・小川軒のチュウソンくんからの思い入れがたっぷり込められた20周年ケーキが会場に運ばれ、ジョージさんが20本のローソクの灯を消すところで、場内は最高の盛り上がり。皆の感謝の思いがつまった最高にハッピーなパーティーでした。

自分とサウサリートとの出会いは、藤沢に越してきたばかりの6年前に遡ります。羊毛君からの誘いで、羊毛とお花のライブをサウサリートに観に行ったのが最初です。
サウサリートは、他のお店や地元の音楽人との横の繋がりを大切にしていて、マスターのジョージさんからは、湘南のいろんなお店や人を紹介してもらいました。その繋がりは自分の財産になっています。
藤沢に越して以来、サウサリートでは年に一度くらいの割合でライブをやらせてもらっています。藤沢の他の場所でもジョージさんがライブを企画してくれたり、こちらの企画にジョージさんにDJとして参加してもらったりと、この街に来て以来、ほんと色々とお世話になってきました。

昨日、一昨日のパーティーに参加した大半の人達が顔見知しり同士。恐らく集まった多くの人達にとって、この2日間のパーティーは知人との再会の場でもあったんじゃないかと思います。このパーティーに参加することで、僕らもありがたい贈り物を受け取りました。みんな、いい顔してたなあ。

この6年間、サウサリートを通して、たくさんの人達と出会い、この街での暮らしがより楽しくなりました。ホントに感謝してます。
あらためて20周年おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。


2014年7月8日火曜日

「まだまだ日本はよふけー後藤田正晴と小田実の遺言」を観て

7月5日FaceBook投稿に編集加筆

YouTubeで見つけたテレビ番組の編集映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=Zs5aXXkiGcA&feature=youtu.be
後藤田正晴は元々、内務省官僚出身、戦後は警察予備隊設立当時の警備課長を勤め、その後、警察権力のトップとして70年安保の大衆運動を鎮圧、田中派の政治家になってからは金権政治家とレッテル貼りされた時期もあります。中曽根政権では官房長官、宮沢内閣で副総理などを歴任。とにかく長く権力の中枢を歩き続けた人で、作家、市民運動家として活動してきた小田実とは対照的な立場にあります。けれど、過去の大戦の反省からナショナリズムの横行を抑え、平和主義に寄って立とうとする姿勢において、二人は共通しています。
以下、番組内の2人の言葉を取り上げます。

小田実は15年前の番組の中で、世界を「平和主義」と「戦争主義」に分けて語ります。
「『平和主義』とは、一切の問題解決は非暴力で行い、時間をかけても平和的解決を目指す。それが日本国憲法が目指す方向性。それに対して、普通の国、世界のほとんどの国は『戦争主義』。『戦争主義』とは『好戦主義』ではない。率先して戦争するわけでも侵略しようというわけでもなく、平和的な手段は行うけれど、最後の手段として戦争がある。」そう小田は定義し、
「国家のために市民が戦わなければならないとなれば、否応無しに徴兵制になる。そういうやり方を繰り返す限り、戦争が起こって民間人が殺される。このやり方にNOと言うなら、今こそ『平和主義』の大切さを考えなければならない時期だ。」と訴えます。

「銃を取らない変わりに、自分達は別のやり方で社会の為に奉仕する『良心的兵役拒否』という制度が、第2次世界大戦後に先進国で根付き始めたけれど、日本は平和憲法によって国家として『良心的兵役拒否』している。我々は、他の国とは違った形で世界に貢献することを示すべきだ。」
そう語る小田実の思いとは逆方向に、今の日本は舵を切ったようです。

「やりたいことは一人でもやる、一人でもやめる。『君が代』を歌いたければ、一人でも歌う。歌いたくなければ、一人でもやめる。制服を着たければ一人でも着る。着たくなければ一人でも着ない。日本人は、あまりにも右見て左見て、結局は何もしない。一人でもやる、一人でもやめるということを、今の若者にぜひやってほしい。」ー小田実 


最近、自民党政権の中枢にいて、平和主義の思いを貫いた後藤田正晴に興味を持つようになり、彼の言動をたどっています。こういう人が現在の自民党の中にいてくれたら、もう少し政権の暴走に歯止めがかけられたのかもしれません。
以下、番組内での後藤田正晴の言葉です。

’86年のイラン・イラク戦争時、中曽根政権の官房長官だった後藤田正晴は、海上自衛隊の掃海艇のペルシャ湾派遣と海上保安庁の巡視船派遣に対して断固反対、体を張ってこれを阻止します。「今ペルシャ湾はイラン・イラク戦争によって好戦海域になっている。そのときに日本のタンカーを守ると言って、海上自衛艦が行くなり、海上保安庁の船が行って、そのときに自国の船を守るための自衛だと言って攻撃することがあれば、相手は自国への武力攻撃と理解して戦争になる。」番組内で後藤田はこう語っています。彼は、輸送と通信が近代戦争の中心であると考えていて、他の場でも当時の政府の認識の甘さを指摘しています。

アメリカがイラクに武力行使を行う直前(’03年)の番組出演で後藤田は、他出演者からの「戦争が始まればアメリカかイラクのどちらかにつくことを選ばなければならない」という意見に対して異議を唱え、「日本は、アメリカかイラクのどちらかを選ぶのではなく、国連を選ぶべき。アメリカ一辺倒に走って行くのはおかしい。」と主張します。後藤田は当時、自民党OBの立場から、自衛隊の海外派遣に対して、はっきりとNOの立場を表明していました。
「日本は一様、戦後、他国の人間を日本の武器で殺すことなく来れたけれど、国際情勢の変化で先行きがわからなくなる中、国民に説明のつかないようなことを政府がやり出した」として、後藤田は番組の中で当時の小泉政権に対する危惧を表明しています。「今度のイラクの場合も、日本は国連の決議に従うべきだ」というのが、後藤田の一環した考えでした。

ここからは番組内以外の言葉ですが、後藤田は、政治が「総理主導」「総理専制」に傾くことに対しても警告を発していました。小泉首相の郵政改革の手法に対しても「民主主義は手続きが一番大事。(首相のやり方は)粗暴過ぎる」と批判しています。’05年に亡くなる直前のインタビューではこのようにも語っています。
「『自衛』とか、『防衛』とかいう言葉は、時の政権の運用次第で、非常に乱暴な使い方になるんです。だからこそ私は、領域外ではあかんよ、と言うので、これが私の絶対条件なんです。」
後藤田は既に’96年のインタビューで、内外情勢が急激に代わり、先が不透明な状況で、集団的自衛権の容認に踏み出すべきではないと語っています。対米追従、自衛隊の領外派遣、武力行使に対して、一貫して反対の姿勢を取り続けた後藤田の危惧は、現実のものになりつつあります。

かつての自民党には、後藤田と共通する立場を取る政治家がある程度存在し、こういった考えが政権に一定の影響を与えていたと思うのですが、今の自民党はそういう歯止めとなる存在が力をなくしてしまったようです。安倍政権によって集団的自衛権が閣議決定されるまでの流れは、立憲主義に反する権力の暴走だと感じています。

後藤田は平和主義を唱えながらも、いわゆる護憲論者とは一線を画する発言もしていて、専守防衛の武装部隊として自衛隊の存在を憲法上認めること(そのかわり九条三項に「領域外における武力行使はこれを行わず」を明記することが絶対条件)や、九条二項、十三条の条文変更などを提案したりしています。
僕自身も、憲法を「再選択」する機会があっていいのではないか、その際は平和主義にのっとって現状の憲法の条文の一部を変えることを選択肢に入れ、矛盾を孕んだ自衛隊の存在を憲法で定義する必要があるのではとも考えるようになりました。
もちろん、現状の憲法に定められた手続きにのっとって行うことが大前提です。集団的自衛権の問題によって、皆が憲法について考える一つの機会になればよいと思います。結論を急ぎすぎず、考え続けようと思います。

後藤田正晴、小田実の2人の言論や政治活動のすべてが常に正しかったと言いたいわけではありません。自分が2人に共感するのは、過去の大戦の反省からナショナリズムの横行を抑え、平和主義と民主主義に寄って立とうとする姿勢です。
一方に流されず、事を急がず、今一度立ち止まり、振り返り、先人の言葉にも耳を傾けるべきだと思います。
長文へのお付き合い、ありがとうございました。


 芦別ディランにて

6月30日FaceBookに投稿

昨夜は芦別・ディランにて、店内の壁画のディランに見守られながら、8日間の北海道ツアーのツアー楽日を迎えました。

芦別市は、60年代までは炭坑の街として多いに賑わっていましたが、炭坑の閉山にともない、人口も最盛期の6万人台から1万人台に減少。今は祭りの後のような静けさが街を包んでいます。





そんなひっそりとした街で、ディランはロックバーとして31年間営業を続けています。オレはもう16年間この店に通い続けていますが、マスターの忠さんとママの美香子さんがディランを続ける限り、これからも芦別に通い続けるつもりです。ディランがツアー最終日でよかった。いい夜でした。

芦別では、去年に続いて今年も8月3日(日)に、忠さんが立ち上げた野外フェス「MUSIC HARVEST 2014」が開催されます。ロケーション最高で、ステキなイベントになること間違いなし。北海道の皆さんぜひ。芦別には今も風が吹いています。

ティーニー・ホッジス、ボビー・ウーマック、小川文明さん、今回のツアー中に偉大な音楽人の訃報に接しました。ツアー直前にはジェリー・ゴフィンも旅立ちました。続けさまに先人の訃報を知る中で、北海道ツアー中に倒れて亡くなられた高田渡さんの言葉を思い出しました。
「死ぬまで生きる」
オレもこれでいっとこうと思います。
旅は続きます。

旭川アーリータイムズにて15年前の自分に出会う

6月27日FaceBookに投稿

旭川アーリータイムズでの初ライブは98年の9月だったと記憶してます。メジャーデビュー当時から8年間お世話になっていた事務所を離れ、フリーになって本格的にツアー暮らしを始めたばかりの頃です。
この時の北海道ツアーは、精神的にきつかった記憶があります。頑張り過ぎて自分のキャパを超えていることに気づかずにいたらしく、ツアー中・帯広あたりで、ひどく消耗して落ち込み、すっかり気力が失せている自分に気づいて、これはやばいぞと感じたのを覚えてます。ホント余裕がなかったんです。

昨夜の打ち上げでアーリータイムズのマスター・野澤さんが、その頃のオレのライブ映像ビデオを店内のテレビで流してくれました。今よりも声が尖っていて、動きが機敏でした。集中力、覚悟が伝わるパフォーマンスで、皆で見入ってしまいました。この夜もいいライブをやったつもりでいたけれど、当時のパフォーマンスにも今にない魅力を感じました。


15年前のライブの「ミラクルマン」が流れた後、オレからのリクエストで、この日のライブの「ミラクルマン」の映像を流してもらって、観比べ、聴き比べしてみました。今の「ミラクルマン」の方がテンポが安定していてノリが大きく、演奏のクオリティーは高いけれど、15年前の性急な疾走感も魅力に感じました。15年前の方が全体的にシャープ。カッコつけてるところは恥ずかしく感じましたが。
思いがけず15年前の自分に出会って、新鮮な刺激を受けました。奴に負けないだけの「気合い」を胸に、想いを束ね、力まず明日の札幌ライブに望もうと思います。

2014年6月20日金曜日

最高の聴き上手ー6.3(火)渋谷・大和田 伝承ホールのライブを終えて

6月3日(火)伝承ホールで行ったアルバム発売記念スペシャル・ライブは、アルバム「HOBO HOUSE」の制作が始まってからこの日に至るまでの流れを集大成するようなステージになった。ライブから2週間以上が経過しても、まだ余韻が残っている。やっぱり、この日のステージのことを、自分なりにちゃんと文章にまとめておかなくちゃと考えて、遅ればせながらブログにアップすることにしました。



ミュージシャン、スタッフ含め、自分の1回のライブために、これだけ多くの人達に関わってもらったのは、自分が90年代にメジャーレコード会社に所属していた時以来だと思う。ベースで参加してくれた寺さん(寺岡信芳)が自身のブログの中で、この日のライブを、皆と一緒につくりあげた「総合芸術」だと語ってくれていたけれど、同感だ。この日のアンサンブルは自分の演奏キャリアの中でも、最高と言っていいクオリティーだった。随分前から伝承ホールを見据えて、準備を重ねてきた甲斐があった。
この日のライブは、いわゆるセッションとはまた違う、さまざまな準備と段取りがあった上で成り立った一期一会だった。ホール公演だからこそ、こういうステージが実現できた部分も大きい。
自分は終始、大きなグルーヴに身を委ねるような心持ちで演奏し、歌うことができた。変に思われるかもしれないけれど、時にはバンドメンバーが奏でる一音一音が目に見えるような、そんな感覚を持った。



「HOBO HOUSE」のレコーディングを始めた当初から、自分が目指すサウンド、アンサンブルの方向は、かなり明確だった。演奏者が互いの息遣いを感じながら、奏でられる全ての音の響きを生かし、平面ではなく立体で音とらえる。歌を中心に、あらゆる音が絡み合い、支え合い、響き合うことで成り立つアンサンブル、ゆったりとしたグルーヴ。柔らかな自然光や木の響き、風の声を感じさせるサウンド。
それは、世の中を取り巻く状況に対する生理的な違和感から生まれたサウンドとも言えるかもしれない。こういった志向を、レコーディングにおいても、ライブにおいても、参加してくれた全ての演奏者が理解し、実践してくれた。

伝承ホールのステージでは、すべての演奏者が最高の聴き上手だった。大所帯でも、それぞれの音がよく聴こえているから、音がバッティングしない。例えば、多くのドラマーは、自分一人でグルーヴをつくろうと力み過ぎて、音を埋めてしう傾向に陥りやすいのだけれど、椎野さん(椎野恭一)のドラムは、力みなくスペースを生かし、他の楽器と絡み合い響き合い、間を共有することでグルーヴをつくってゆく。音量のバランスとダイナミズムの付け方も絶妙だ。「HOBO HOUSE」制作からの流れで自分が目指してきたのは、こういう「引き算の演奏」だ。
こういった演奏力は、表面的な楽器のテクニックだけではなく、生き方や人間性にも関わるものだと思う。「ガッツ」を持っていることは大前提。でも、それを押し付けない。我欲を超えて互いを尊重し、最高の音楽のための一パーツになることで、それぞれの演奏者の個性がより引き出され際立ってゆく。そういう逆説が起こり得るのだ。
この日、聴き上手であったのは演奏者だけではなかった。照明、PAスタッフ、お客さん、恐らくその場に立ち会った全ての人達が、最高の聴き上手であった。その態度が心地良いエネルギー循環をもたらし、皆が愛おしい一期一会の担い手になり得たのだと思う。日常生活での人や自然との関わりにおいても、このような態度でありたいものだ。



ライブは発見と体験の宝庫であることを、今回のバンドメンバーとのツアーを経て、あらためて実感させられた。自分は人生の大切な多くを、ステージ上で、音楽を通じて、今も学び続けている。
そのような発見や体験は、さまざまな人達との関わりがあってのことだ。いい出会いに恵まれているなあと思う。
来てくれたお客さん、関わってくれたミュージシャン、スタッフの皆さん、本当にありがとう。
これからもお付き合いの程よろしくお願いします。


★6/3(火)渋谷・渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール
リクオ・ソロアルバム「HOBO HOUSE」発売記念スペシャルライブ
【出演】リクオ(歌&ピアノ)
サポート:笹倉慎介(ギター&コーラス)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/宮下広輔(ペダルスティール)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)/真城めぐみ(コーラス)

2014年5月20日火曜日

高田渡さんの命日に感じたこと

もうひと月以上前の話だけれど、高田渡さんの命日の4月16日(水)に鹿児島市で企画されたライブイベント「タカダワタリズム 2014」に、大先輩のシンガーソングライター・中川五郎さん、八重山出身の唄者・大工哲弘さん、漫画家のうえやまとちさんとともに参加させてもらった。印象に残る夜だったので、忘れる前に書き留めておこうと思う。

渡さんとの出会いは、自分が大学生の頃。偶然に渡さんと知り合ったという3つ上の姉に誘われて、京都のライブハウス・拾得にライブを観に行ったのが最初。はじめて見る渡さんは、随分と枯れた味わいのあるおじさんに見えたけれど、今思えば当時の渡さんはまだ30代後半で、今の自分の年齢よりも一回りぐらい下だったのだ。あれから四半世紀以上の歳月が流れ、渡さんが亡くなってから9年が経過した。
この日、五郎さんと大工さんのステージを拝見させてもらい、イベントを通じてあらためて渡さんの音楽にふれることで、さまざまなことを感じ考えさせられた。

「渡さんはストレートなメッセージソングを好んではいなかったから、僕がそういう歌を歌うのを嫌っていた。」そう語った後で、五郎さんがソロステージの1曲目に歌い始めたのは、ニック・ロウのカヴァー「(What's So Funny 'Bout)Peace,Love and Undaerstanding」だった。この曲はオレも去年から自分なりの日本語に意訳してステージで歌い始めた曲だったので、少々驚いたと同時に嬉しくも感じた。五郎さんの日本語訳はオレのそれよりももっとストレート、アレンジもアップテンポ、とてもエモーショナルな演奏だった。ギターをかき鳴らしシャウトする五郎さんの姿をみて、とにかくこの曲を今歌わなければならないという旬の思いが伝わってきた。
大工哲弘さんはこの日のステージで、明治・大正期に活躍した壮士演歌の草分け的存在、添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)の曲を数曲聴かせてくれた。生前の渡さんも唖蝉坊の曲を何曲も取り上げていて、その詩にアメリカン・ルーツミュージックのメロディーを乗せて歌ったりもしていた。
演歌と言っても壮士演歌の歌の内容は今のそれとは違い、政治や世相を庶民の目から面白おかしく風刺するものだ。大工さんが三線で弾き語る唖蝉坊の「あきらめ節」を聴きながら、渡さんと大工さんが、壮士演歌の流れをくんでいることを実感した。その歌は、右や左や上からではなく、下からの実感の込められた異議申し立てだ。
大工さんは、ステージ上のMCでも、ユーモアを交えつつ、原発の再稼働と海外輸出にはっきりと意義申し立てする発言をしていて、音楽活動を通じて社会にコミットしてゆくことに、以前よりも積極的になられているように感じた。

五郎さんと大工さんのステージからは、3・11以降の態度がはっきりと伝わってきた。自分は、2人のステージに勇気づけられバトンを受け取ったような気持ちで、その後のステージに向かった。選曲も2人のステージを受けてのものになった。
五郎さんはストレートなメッセージで社会に異議申し立てをし、渡さんはあくまでも粋と素朴こだわりながら、落語にも似た表現で権威や権力を茶化したり皮肉ったり、時には無視して好きにやることである種の抵抗を示していたように思う。この日のイベントを通じて、表現方法、センスはそれぞれに違うけれど、権威や権力、既成の価値感と距離を置き、時にはそれらに対して抵抗を示す態度において、渡さん、五郎さん、大工さんは共通していると感じた。そして、3人ともが、どこかアウトローのニオイがして、実に人間くさい。結局、自分が魅力を感じる音楽や表現は、そういう要素を含んだものなんだとあらためて自覚した。そういった先人達から自分は勝手にバトンを受け取ったのだ。


2014年5月14日水曜日

「よくわらかない」という事実を受け入れる

漫画「美味しんぼ」の中で、福島を訪れた主人公らが鼻血を出す描写が、放射能と因果関係を結びつけているとして問題になっている。政治家や政府までが問題として取り上げ、メディアが過剰な報道を繰り返すことで、騒ぎは増々ひろがりを見せているようだ。これを機に、放射能の影響について、立場を超え、もっと冷静に検証してゆこうという空気が生まれればよいと思うのだが、そういう方向には向かっていない気がする。その騒ぎ方をみるにつけ、立場、思想によらず、ヒステリックな世の中になってきたなあと感じる。

自分は、放射能と鼻血を安易に関連づけることに対しては否定的な立場だけれど、原発事故による放射能の影響など一切ないという立場にも組しない。どちらの態度にもヒステリックな要素を感じる。一つの立場に固執するあまり、自分の見たい景色だけを見て、全体が見えなくなってしまっている気がするのだ。今回のような騒ぎ方は、原発の問題の本質を隠し、矮小化させてしまうように感じる。

大体、原発の抱える問題は放射能だけではない。原発は、中央からの支配によって、その地域を分断し、郷土を破壊してゆくという構造的問題を抱えている。原発事故を引き起こした電力会社のずさんな管理体制や隠蔽体質も、さらに検証され責任を問われてゆくべきだと思う。原発を再稼働させるのならば、なおさらだ。
福島原発事故はまだ収束していない。廃炉までの道のりは長く険しい。汚染水の問題も解決していないし、燃料棒が取り出される前に、その地域で再び大きな地震が起こればどうなってしまうのだろうと思う。
実際に事故によって、生活を根本的に破壊された人達がたくさん存在する事実を忘れてはいけない。その中に、偏った情報に惑わされて避難した人がいたとしても、その根本の原因は原発事故にある。福島第一原発の事故は過去の出来事ではなく、現在進行形の問題なのだ。

今回の騒動を受けての原作者のブログを読んで気になったのは、「真実は我にあり」というその態度だ。なんだが、いろんな人がそれぞれの依る立場から「真実」の押し付け合いをしている気がする。そういった態度が視野狭窄につながり、二項対立を深め、問題の解決を遠ざけてゆく一因になっているのではないだろうか。互いにもう少し、「よくわらかない」という事実を謙虚に受け入れるべきではないかと思う。そして、対立しあう者としてではなく、立場や視点に違いのある「補いあう者同士」として情報交換し、対話を重ねて、問題の解決にあたることはできないものだろうか。

2014年5月11日日曜日

不真面目に マジメに 寄り道 宝探し

博多、名古屋、大阪、渋谷の4公演行われるレコ発ツアーの暫定セットリストを考えた。色々と想像しているとワクワクしてきて、楽しい作業だった。早くメンバーと合流してリハーサルがやりたいなあ。
このまま音楽にだけ没頭していたいものだ。一つのことに集中できるというのは幸せなことだなあと思う。そういう環境をつくるために雑事もやりこなそう。心の煩わしさにも向き合おう。

ツアー中は頭でっかちになることがあまりない。いろんな人や風景や価値感に出会うことで、五感のバランスがとれて心の風通しがよくなるからだ。あとはステージと打ち上げに集中すればよい。といいつつ、最近はツアー中も雑事に追われたりしているのだが。
人と出会ってライブをやって楽しく打ち上がれば、心はすっきりする。まあ翌朝は、テンション低く、二日酔いと疲れによる気だるさを感じながら次の街に移動するのだけれど、心はどこか清々しい。きっと風が通り抜けているからだ。
でも、ツアー中にも時々ふと、自分が世の中から置き去りされているような気持ちにもなることがある。そして、自分の「とるにたりなさ」を思ったりして寂しくなる。ここ数年の世の中の変化の影響もあって、最近そんな思いが強くなっている気がする。ツアー暮らしは好きだけれど、そこに埋没しすぎてもいけないとも思う。
世の状況や自分自身に向き合って、もっと悩んだり、葛藤したり、反芻する時間が必要なのかもしれない。自分はどこかに属すことなく、門の前にたたずみ、割り切れずに悩み続ける人のはずなのだが、音楽生活が楽しすぎて、そのへんが中途半端というか、まだまだ突きつめ方が足りないというか、マジメさが足りないというか。そう言えばオレ「不真面目に マジメに 寄り道 宝探し」って歌ってたなあ。ああそうか。
仕事をやりにきたファミレスでまたこんなことを考え始めてしまい、能率よく雑事をこなせないまま陽が暮れはじめている。チャリンコで海沿いを走って帰ろう。


「修羅を曝す」かあ

ツアーから戻ってから雑事に追われて心の余裕がない。一つ一つ丁寧にやってゆこうと自分に言い聞かせるのだが、気が焦って、なかなか一つのことに心静かに集中することができない。こんな頭でっかちでは、曲もできん。アイデアやテーマはいろいろあるのに。
そんな心持ちのとき、久し振りに田口ランディさんのブログ「いま、伝えたいこと」を読んで、身につまされつつも、少し救われた気分になった。印象に残った文章の一部を以下に抜粋。


人はその人としてそこに存在しているだけで、どれくらいの影響力をもっているのかを、自分では気づけない存在だ。それは私も同じで、私自身の「とるにたらなさ」に日々落ち込み、日によっては有頂天になり、日によっては無力感に嘖まれてしまったりする。(中略)
そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている菩薩のような存在なのだが、そんなことにもまったく気づかないで、ふがいない自分に苦しみながら、生きている。このごろは、それはなんて哀しい美しいことなんだろうと、思われてしょうがない。
2014年 04月 09日生きる愛しさ ダイアローグ研究会の夜
http://runday.exblog.jp/21972585/

日々のことすべてに集中できることを、悟りをひらいた人と呼ぶのかもしれない。そういう人はどこにでもいるだろう。なにげなくいるだろう。そして、ささやかに世の中を照らしていると思う。その人を見れば、誰でも、気持ちよいはずだから。
そういう人になりたいなあと思うのだけれど、まったく、ぜんぜん遠くて、いつも焦っていてとにかく早くやらなくちゃ、そしてやりながらもう次のこと別のこと終ったことを考えていて、あっちこっち、物事をやり散らかしながら、時折ぼんやりし、ふてくされ、ささくれだち、淋しくなったり、うれしくなったりしながら、ああ、忙しいとか呟いているのが現状なのである。
2014年 03月 14日「日々の悟り」
http://runday.exblog.jp/21825869/

どこかで「こんなこと続けても無駄なんじゃないか」という、魔の声が響いている。なんのために、誰のために、場を創ろうとしているのか。自分のなかの軸がわからなくなっている。
 一緒に動いてくれる仲間がいるので、なんとか続けているが、一人では到底、無理だろう。私は焦っていると思う。とても強く、苛立っている。この状況に。たぶん。そして怒っている。対話なんかすっとばして、力と数でこの状況を変えたいと願う自分もいるのだ。そのほうがてっとり早いし、すかっとする。そういう自分の中の衝動を抑えつけて「対話」などと言っても、自分に自分が食われていく。だから、仏教に静けさを求めているのだろう。自分の修羅を静めたいからだ。
 そんな時、いつも思い出すのは気功の師である新渡戸道子先生の言葉だ。
「田口さん、ゆっくりは怖くない。怖いのは止めてしまうことよ」
 ゆっくりは怖くない。
 呪文のように繰り返している。
 ゆっくりは怖くない。
 怖いのは止めてしまうこと。
2014年 03月 13日「3月11日が過ぎて」
http://runday.exblog.jp/21820668/


なんだか今の自分にタイムリーな言葉ばかりの気がした。
特に「そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている」という1文が心に残ったというか、引っかかった。
「修羅を曝す」かあ。やってきたかなあ。多分、人並みには落ち込んだり悩んだりしてると思うし、自分の醜い部分も知ってるけど、どこまで曝してきたかなあ。
もし、これからブログを再開して、そこそこコンスタントに更新するとしたら、このへんがテーマの一つになるのかあと思ったり。曝したい気持ちがなくはないのだが、「曝し方」がようわからんかったり。
今の自分は、わりと頻繁に有頂天になる一方で、時々自身の「とるにたらなさ」に落ち込み、ツアー戻りの数日後には無力感に嘖まれたかと思うと、わりと早くに復活して、また物事をやり散らかしつつ、時折ぼんやりし、「やっぱ、むだなんじゃないか」と空しくなったり、淋しくなったり、で、また復活して、性懲りもなくやり散らかして、ああ、忙しいと独りごとをぼやき、力と数を求めて空回り気味に焦っているという、つまり、ランディさんのブログに書かれている姿は、自分の今の姿とよく重なるのだ。
とりあえず、自分の目の前の不安は、バンドで回る博多、名古屋、大阪、渋谷のレコ発ツアーやな。お客さん来てくれるかなあ。これが心配。集大成なんやけどな。だいぶ現実的な不安です。状況もっと変えたいなあ。つまり力と数を求めて焦ってるってことか。こういうことの繰り返し。
「ゆっくりは怖くない。」はずだが、そうも言っとれん状況もあり。でも腹を据え、腰を据えんと、うまくいかん。東北ツアーもあるし、まだしばらくはノンストップ。とりあえず、6月3日(火)渋谷・伝承ホールで一区切り。
「修羅を曝す」かあ。ちょっと大げさかな。
とにかく、悩んで、学んで、心鎮めて、歌って、弾いて、叩いて、語って、飲んで、笑って、騒いで、寂しくなって、いろいろ巡って、おもしろおかしくやるよー。
多分また近々。
2014年5月11日



2014年2月23日日曜日

ソロアルバム「HOBO HOUSE」発売に寄せて

ソロアルバム「HOBO HOUSE」が一般発売になりました。3.11以降にリリースする初のオリジナル・ソロルバムということもあり、特別な感慨があります。
このアルバムの最初のレコーディングセッションが行われたのが、2011年の7月。その後、コラボ・ライブアルバム「HOBO CONNECTION VOL.1」、MAGICAL CHAIN CLUB BANDの1st.アルバム「MAGICAL CHAIN CLUB BAND」のリリースを挟んで、作品の完成までには随分と時間を要しました。
ここまで、時間がかかってしまったのは、やはり3・11の影響が大きかった。あの出来事とそれ以降の社会の変化によって、ソロアルバムの内容を考え直さざるを得なくなりました。3.11以降の自分のスタンスが表れた内容にしたいと思ったんです。なんて言い方をすると、少しかた苦しいイメージをもたれてしまうかもしれませんが、今回のアルバムの中では、具体的な何かに反対を表明したり、アンチテーゼを掲げようという気持ちはなかったんです。
曲を書いたりアルバムを制作する上での動機には、ストレス、怒り、閉塞感といったネガティブな感情が存在しましたが、その思いをストレートに表現しようとは思いませんでした。今の世の中に閉塞感、息苦しさのようなものを感じるからこそ、柔らかく風通しのよい作品にしたかった。敵をつくって2項対立を深めようとする流れがあるからこそ、そういう殺伐とした空気から離れたい、社会から少し距離を置いて、旅人の視点からの歌をアルバムにおさめたいと考えました。他者との繋がりを求める普遍的なラブソングも歌いたかった。世の中のやな空気にチャンネルを合わせ続けたくなかったんです。

今回のアルバムの共同プロデューサーの笹倉慎介くんは、現在32歳の才能あるシンガーソングライターです。録音場所となった埼玉県入間市の米軍ハウス街にあるスタジオ、グズリレコーディングハウスは、彼が運営するスタジオです。慎ちゃんがこの木造の古いアメリカンハウスに越してきたのが2007年。以前から、この街と縁のあった僕は、越してきたばかりの慎ちゃんと知り合い、以来、交流を深めてきました。
元々、住居として使われていた空間を、彼は自らの手で、こつこつと時間をかけてリフォームし、機材を揃え、この場所で自身のアルバムを制作するだけでなく、レコデーィングスタジオとして一般にも開放するようになりました。通常のスタジオの密閉された空間ではなく、周囲に緑が多く、日中は自然光が入る心地よいオープンな空間で、時間をかけてレコーディングはすすめられました。このスタジオと慎ちゃんの存在なくして、今回のアルバムは成立しませんでした。

多分’0年代後半くらいから、自分よりも若い世代と交流し、自分とは違った感性やその暮らしぶりに触れることで、水面下で時代の価値観は既に変わり始めているのだということを実感するようになりました。慎ちゃんの世代の多くに、自分のようなバブル世代にはない「地の足のつき方」、頼もしさを感じる機会が増えました。
慎ちゃんも、音楽活動の最初から、メジャー資本に期待しない、インディペンデントな活動を続けていて、そのありようがとても自然に感じられました。インディペンデントであることが、特別なことではなく当たり前なんです。既成の価値観に反対を表明するまでもなく、既に新しい価値観の中で暮らし、音楽活動を続けているって言うと、ちょっと持ち上げ過ぎかな。
なんというか、自分にはない成熟や洗練を、若くして身につけているなあという気もしたんです。その一方で、年齢の割に幼さを感じる部分もあったりして、多分、目指すところは同じでも、たどってきた今までの道順が自分とは違う。そういうところも新鮮に思えたんです。
今回の作品には、慎ちゃんのような自分よりも若い世代のセンス、空気感、才能が必要でした。その感性から受けた影響を作品に反映させたかったんです。自分一人で作品をプロデュースしていたら、もっと暑苦しい内容になっていただろうと思います。

7年前に慎ちゃんと初めて出会って、彼の弾き語りを生で聴かせてもらったときに、オレは彼に面と向かって「もっとストレス感じた方がええよ」なんて、偉そうなことを言ってしまいました。ただ、それは彼の音楽を聴いての素直な感想でもあり、彼の素晴らしいセンス、才能を感じたからこその、よけいな一言でもありました。慎ちゃんもその言葉をずっと覚えてくれていたようで、最近の彼のブログで、当時の2人出会いのことを書いてくれています。素直ないい文章だと思います。

http://sasakurashinsuke.com/2014/01/26/

それから月日が流れ、3・11を経て、オレも慎ちゃんもストレスを感じざるを得ない状況に追い込まれました。そんな中で、震災、原発事故から4ヶ月経たない頃に最初のレコーディングセッションが行われました。そのセッション自体は素晴らしいものでしたが、オレはその後のアルバム制作の展望が見えなくなっていました。
そのとき、2日間行われたレコーディングのオフ日に、慎ちゃんと2人で曲作りをしました。そこで生まれた曲が、アルバムにも収録した「夜明け前」です。その曲は自分にとって、3・11以降、初めて完成させることのできた曲でした。さまざまな不安、ストレスを経て生まれた、願いを込めた1曲です。この曲が生まれることで、アルバムの制作も一歩前に進めた気がします。それでも完成までには時間を要してしまいましたが。

こうやって長々とアルバム「HOBO HOUSE」について語ってきても、まだ作品のほんの一部分しか語れていない気がして、もどかしく感じます。実際にアルバムを聴いてもらえば、ここに書かれている内容とは、また違った印象を持たれるかもしれません。ぜひ聴いて、体験してください。
このアルバムは、自分を媒体として、共同プロデューサーの笹倉慎介はじめ、さまざまな人たちとの出会い、関わりの中で、生まれた作品です。参加してくれた多くのミュージシャン全員がホントに素晴らしかった。レコーディングエンジニアのモーキー、マスタリングのコテツさんとも一緒に仕事ができてホントによかったです。レコーディングの後、夜中にお邪魔して毎回美味しいて料理とお酒を出してくれたカフェSO-SOにも心から感謝。
今の時代に生きる歌と、愛おしい一期一会を残すことができました。
このアルバムを聴いてくれた人の心の風通しがよくなったら嬉しいです。

多くの人に届きますように。 ーリクオ


























★リクオ『HOBO HOUSE』
HOME WORK (HW031) 2014年2月21日発売
¥2,835(税込)

●アルバム特設サイト

●HOME WORKからの注文

●amazonからの注文

●OTOTOYからの超高音質HQD(24bit 48k WAV)&mp3(320dpi)での有料配信。

●アルバム曲のPV
「光」
「Happy Day」