2014年5月20日火曜日

高田渡さんの命日に感じたこと

もうひと月以上前の話だけれど、高田渡さんの命日の4月16日(水)に鹿児島市で企画されたライブイベント「タカダワタリズム 2014」に、大先輩のシンガーソングライター・中川五郎さん、八重山出身の唄者・大工哲弘さん、漫画家のうえやまとちさんとともに参加させてもらった。印象に残る夜だったので、忘れる前に書き留めておこうと思う。

渡さんとの出会いは、自分が大学生の頃。偶然に渡さんと知り合ったという3つ上の姉に誘われて、京都のライブハウス・拾得にライブを観に行ったのが最初。はじめて見る渡さんは、随分と枯れた味わいのあるおじさんに見えたけれど、今思えば当時の渡さんはまだ30代後半で、今の自分の年齢よりも一回りぐらい下だったのだ。あれから四半世紀以上の歳月が流れ、渡さんが亡くなってから9年が経過した。
この日、五郎さんと大工さんのステージを拝見させてもらい、イベントを通じてあらためて渡さんの音楽にふれることで、さまざまなことを感じ考えさせられた。

「渡さんはストレートなメッセージソングを好んではいなかったから、僕がそういう歌を歌うのを嫌っていた。」そう語った後で、五郎さんがソロステージの1曲目に歌い始めたのは、ニック・ロウのカヴァー「(What's So Funny 'Bout)Peace,Love and Undaerstanding」だった。この曲はオレも去年から自分なりの日本語に意訳してステージで歌い始めた曲だったので、少々驚いたと同時に嬉しくも感じた。五郎さんの日本語訳はオレのそれよりももっとストレート、アレンジもアップテンポ、とてもエモーショナルな演奏だった。ギターをかき鳴らしシャウトする五郎さんの姿をみて、とにかくこの曲を今歌わなければならないという旬の思いが伝わってきた。
大工哲弘さんはこの日のステージで、明治・大正期に活躍した壮士演歌の草分け的存在、添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)の曲を数曲聴かせてくれた。生前の渡さんも唖蝉坊の曲を何曲も取り上げていて、その詩にアメリカン・ルーツミュージックのメロディーを乗せて歌ったりもしていた。
演歌と言っても壮士演歌の歌の内容は今のそれとは違い、政治や世相を庶民の目から面白おかしく風刺するものだ。大工さんが三線で弾き語る唖蝉坊の「あきらめ節」を聴きながら、渡さんと大工さんが、壮士演歌の流れをくんでいることを実感した。その歌は、右や左や上からではなく、下からの実感の込められた異議申し立てだ。
大工さんは、ステージ上のMCでも、ユーモアを交えつつ、原発の再稼働と海外輸出にはっきりと意義申し立てする発言をしていて、音楽活動を通じて社会にコミットしてゆくことに、以前よりも積極的になられているように感じた。

五郎さんと大工さんのステージからは、3・11以降の態度がはっきりと伝わってきた。自分は、2人のステージに勇気づけられバトンを受け取ったような気持ちで、その後のステージに向かった。選曲も2人のステージを受けてのものになった。
五郎さんはストレートなメッセージで社会に異議申し立てをし、渡さんはあくまでも粋と素朴こだわりながら、落語にも似た表現で権威や権力を茶化したり皮肉ったり、時には無視して好きにやることである種の抵抗を示していたように思う。この日のイベントを通じて、表現方法、センスはそれぞれに違うけれど、権威や権力、既成の価値感と距離を置き、時にはそれらに対して抵抗を示す態度において、渡さん、五郎さん、大工さんは共通していると感じた。そして、3人ともが、どこかアウトローのニオイがして、実に人間くさい。結局、自分が魅力を感じる音楽や表現は、そういう要素を含んだものなんだとあらためて自覚した。そういった先人達から自分は勝手にバトンを受け取ったのだ。


2014年5月14日水曜日

「よくわらかない」という事実を受け入れる

漫画「美味しんぼ」の中で、福島を訪れた主人公らが鼻血を出す描写が、放射能と因果関係を結びつけているとして問題になっている。政治家や政府までが問題として取り上げ、メディアが過剰な報道を繰り返すことで、騒ぎは増々ひろがりを見せているようだ。これを機に、放射能の影響について、立場を超え、もっと冷静に検証してゆこうという空気が生まれればよいと思うのだが、そういう方向には向かっていない気がする。その騒ぎ方をみるにつけ、立場、思想によらず、ヒステリックな世の中になってきたなあと感じる。

自分は、放射能と鼻血を安易に関連づけることに対しては否定的な立場だけれど、原発事故による放射能の影響など一切ないという立場にも組しない。どちらの態度にもヒステリックな要素を感じる。一つの立場に固執するあまり、自分の見たい景色だけを見て、全体が見えなくなってしまっている気がするのだ。今回のような騒ぎ方は、原発の問題の本質を隠し、矮小化させてしまうように感じる。

大体、原発の抱える問題は放射能だけではない。原発は、中央からの支配によって、その地域を分断し、郷土を破壊してゆくという構造的問題を抱えている。原発事故を引き起こした電力会社のずさんな管理体制や隠蔽体質も、さらに検証され責任を問われてゆくべきだと思う。原発を再稼働させるのならば、なおさらだ。
福島原発事故はまだ収束していない。廃炉までの道のりは長く険しい。汚染水の問題も解決していないし、燃料棒が取り出される前に、その地域で再び大きな地震が起こればどうなってしまうのだろうと思う。
実際に事故によって、生活を根本的に破壊された人達がたくさん存在する事実を忘れてはいけない。その中に、偏った情報に惑わされて避難した人がいたとしても、その根本の原因は原発事故にある。福島第一原発の事故は過去の出来事ではなく、現在進行形の問題なのだ。

今回の騒動を受けての原作者のブログを読んで気になったのは、「真実は我にあり」というその態度だ。なんだが、いろんな人がそれぞれの依る立場から「真実」の押し付け合いをしている気がする。そういった態度が視野狭窄につながり、二項対立を深め、問題の解決を遠ざけてゆく一因になっているのではないだろうか。互いにもう少し、「よくわらかない」という事実を謙虚に受け入れるべきではないかと思う。そして、対立しあう者としてではなく、立場や視点に違いのある「補いあう者同士」として情報交換し、対話を重ねて、問題の解決にあたることはできないものだろうか。

2014年5月11日日曜日

不真面目に マジメに 寄り道 宝探し

博多、名古屋、大阪、渋谷の4公演行われるレコ発ツアーの暫定セットリストを考えた。色々と想像しているとワクワクしてきて、楽しい作業だった。早くメンバーと合流してリハーサルがやりたいなあ。
このまま音楽にだけ没頭していたいものだ。一つのことに集中できるというのは幸せなことだなあと思う。そういう環境をつくるために雑事もやりこなそう。心の煩わしさにも向き合おう。

ツアー中は頭でっかちになることがあまりない。いろんな人や風景や価値感に出会うことで、五感のバランスがとれて心の風通しがよくなるからだ。あとはステージと打ち上げに集中すればよい。といいつつ、最近はツアー中も雑事に追われたりしているのだが。
人と出会ってライブをやって楽しく打ち上がれば、心はすっきりする。まあ翌朝は、テンション低く、二日酔いと疲れによる気だるさを感じながら次の街に移動するのだけれど、心はどこか清々しい。きっと風が通り抜けているからだ。
でも、ツアー中にも時々ふと、自分が世の中から置き去りされているような気持ちにもなることがある。そして、自分の「とるにたりなさ」を思ったりして寂しくなる。ここ数年の世の中の変化の影響もあって、最近そんな思いが強くなっている気がする。ツアー暮らしは好きだけれど、そこに埋没しすぎてもいけないとも思う。
世の状況や自分自身に向き合って、もっと悩んだり、葛藤したり、反芻する時間が必要なのかもしれない。自分はどこかに属すことなく、門の前にたたずみ、割り切れずに悩み続ける人のはずなのだが、音楽生活が楽しすぎて、そのへんが中途半端というか、まだまだ突きつめ方が足りないというか、マジメさが足りないというか。そう言えばオレ「不真面目に マジメに 寄り道 宝探し」って歌ってたなあ。ああそうか。
仕事をやりにきたファミレスでまたこんなことを考え始めてしまい、能率よく雑事をこなせないまま陽が暮れはじめている。チャリンコで海沿いを走って帰ろう。


「修羅を曝す」かあ

ツアーから戻ってから雑事に追われて心の余裕がない。一つ一つ丁寧にやってゆこうと自分に言い聞かせるのだが、気が焦って、なかなか一つのことに心静かに集中することができない。こんな頭でっかちでは、曲もできん。アイデアやテーマはいろいろあるのに。
そんな心持ちのとき、久し振りに田口ランディさんのブログ「いま、伝えたいこと」を読んで、身につまされつつも、少し救われた気分になった。印象に残った文章の一部を以下に抜粋。


人はその人としてそこに存在しているだけで、どれくらいの影響力をもっているのかを、自分では気づけない存在だ。それは私も同じで、私自身の「とるにたらなさ」に日々落ち込み、日によっては有頂天になり、日によっては無力感に嘖まれてしまったりする。(中略)
そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている菩薩のような存在なのだが、そんなことにもまったく気づかないで、ふがいない自分に苦しみながら、生きている。このごろは、それはなんて哀しい美しいことなんだろうと、思われてしょうがない。
2014年 04月 09日生きる愛しさ ダイアローグ研究会の夜
http://runday.exblog.jp/21972585/

日々のことすべてに集中できることを、悟りをひらいた人と呼ぶのかもしれない。そういう人はどこにでもいるだろう。なにげなくいるだろう。そして、ささやかに世の中を照らしていると思う。その人を見れば、誰でも、気持ちよいはずだから。
そういう人になりたいなあと思うのだけれど、まったく、ぜんぜん遠くて、いつも焦っていてとにかく早くやらなくちゃ、そしてやりながらもう次のこと別のこと終ったことを考えていて、あっちこっち、物事をやり散らかしながら、時折ぼんやりし、ふてくされ、ささくれだち、淋しくなったり、うれしくなったりしながら、ああ、忙しいとか呟いているのが現状なのである。
2014年 03月 14日「日々の悟り」
http://runday.exblog.jp/21825869/

どこかで「こんなこと続けても無駄なんじゃないか」という、魔の声が響いている。なんのために、誰のために、場を創ろうとしているのか。自分のなかの軸がわからなくなっている。
 一緒に動いてくれる仲間がいるので、なんとか続けているが、一人では到底、無理だろう。私は焦っていると思う。とても強く、苛立っている。この状況に。たぶん。そして怒っている。対話なんかすっとばして、力と数でこの状況を変えたいと願う自分もいるのだ。そのほうがてっとり早いし、すかっとする。そういう自分の中の衝動を抑えつけて「対話」などと言っても、自分に自分が食われていく。だから、仏教に静けさを求めているのだろう。自分の修羅を静めたいからだ。
 そんな時、いつも思い出すのは気功の師である新渡戸道子先生の言葉だ。
「田口さん、ゆっくりは怖くない。怖いのは止めてしまうことよ」
 ゆっくりは怖くない。
 呪文のように繰り返している。
 ゆっくりは怖くない。
 怖いのは止めてしまうこと。
2014年 03月 13日「3月11日が過ぎて」
http://runday.exblog.jp/21820668/


なんだか今の自分にタイムリーな言葉ばかりの気がした。
特に「そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている」という1文が心に残ったというか、引っかかった。
「修羅を曝す」かあ。やってきたかなあ。多分、人並みには落ち込んだり悩んだりしてると思うし、自分の醜い部分も知ってるけど、どこまで曝してきたかなあ。
もし、これからブログを再開して、そこそこコンスタントに更新するとしたら、このへんがテーマの一つになるのかあと思ったり。曝したい気持ちがなくはないのだが、「曝し方」がようわからんかったり。
今の自分は、わりと頻繁に有頂天になる一方で、時々自身の「とるにたらなさ」に落ち込み、ツアー戻りの数日後には無力感に嘖まれたかと思うと、わりと早くに復活して、また物事をやり散らかしつつ、時折ぼんやりし、「やっぱ、むだなんじゃないか」と空しくなったり、淋しくなったり、で、また復活して、性懲りもなくやり散らかして、ああ、忙しいと独りごとをぼやき、力と数を求めて空回り気味に焦っているという、つまり、ランディさんのブログに書かれている姿は、自分の今の姿とよく重なるのだ。
とりあえず、自分の目の前の不安は、バンドで回る博多、名古屋、大阪、渋谷のレコ発ツアーやな。お客さん来てくれるかなあ。これが心配。集大成なんやけどな。だいぶ現実的な不安です。状況もっと変えたいなあ。つまり力と数を求めて焦ってるってことか。こういうことの繰り返し。
「ゆっくりは怖くない。」はずだが、そうも言っとれん状況もあり。でも腹を据え、腰を据えんと、うまくいかん。東北ツアーもあるし、まだしばらくはノンストップ。とりあえず、6月3日(火)渋谷・伝承ホールで一区切り。
「修羅を曝す」かあ。ちょっと大げさかな。
とにかく、悩んで、学んで、心鎮めて、歌って、弾いて、叩いて、語って、飲んで、笑って、騒いで、寂しくなって、いろいろ巡って、おもしろおかしくやるよー。
多分また近々。
2014年5月11日