2015年7月29日水曜日

鶴見俊輔氏の「お守り言葉」から「戦争法案」という言葉を考える

哲学者、評論家の鶴見俊輔氏が亡くなられた。
自分の両親は、若い頃から鶴見氏のお世話になり、京都の実家の本棚には氏の著作が多数並べられていた。自分がそれらを本棚から取り出すことはほとんどなかったけれど、氏は自分にとってもどこか身近で親しみを感じさせる存在だった。
若かりし頃の両親は、鶴見氏らによって戦後すぐに創刊された「思想の科学」に、’60年代から’70年代にかけて、何度か文章を書いたそうだ。母によると、鶴見氏はとにかく褒め上手で、掲載された母の文章をいつもベタ褒めしたくれたと言う。母はそれが嬉しくて、氏から褒められたことを何人もの同世代の知人に話したところ、皆が一様に何かしらのお褒めの言葉を氏から受けとっていたことが判明し、少しがっかりしたそうだ。鶴見氏の人柄を表すエピソードに違いない。

鶴見氏は、「思想の科学」を創刊するにあたってまず、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」という問いをテーマに掲げ、「言葉のお守り的使用法について」という論文を発表する。その中で氏は、戦時中に国家が扇動的に用いたキャッチフレーズを「お守り言葉」と表し、以下のように語っている。

「言葉のお守り的使用法とは、擬似主張的使用法の一種であり、意味がよくわからずに言葉を使う習慣の一つである。軍隊、学校、公共団体に於ける訓示や挨拶の中には必ず之(これ)らの言葉が入っている。」

「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する『熱狂的献身』と米英に対する『熱狂的憎悪』とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた」

「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」

ここで言われる戦時中に用いられた「お守り言葉」「大量のキャッチフレーズ」とは、例えば「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」「鬼畜米英」「国体」などだ。政府はこれらの「お守り言葉」を使って政策を正当化し、戦争の実体を陰蔽した。
こうした言葉の多用は集団の思考停止とヒステリックをもたらした。やがて「お守り言葉」は、大衆を黙従させ、煽動に導く大きな力を持つようになった。自分は、今の日本において、こうした歴史が繰り返される不安を感じている。
「積極的平和主義」「安全保障関連法案(安保法案)」「戦後レジームからの脱却」「アベノミクス」「美しい国」といった言葉を生み出してきた安部政権は「お守り言葉」の使用に自覚的な政権だと思える。それらのフレーズが定着することによって、言葉の意味が書き変えられ、実体がうやむやにされたまま事が進んでゆく不安を覚える。

今月の7月15日、「安全保障関連法案」が衆院平和安全法制特別委員会で可決された。憲法違反との批判が渦巻く中での強行採決だった。
自分は、「安全保障関連法案」は、中国を第1の「敵」とみなし、アメリカへの追従を深め、「戦争可能な国」を目指すものだと考えている。しかし、国会の審議では、どれだけ時間を費やしても、法案の本質や本音がなかなか明らかにされない(今日の参議院での審議で、安部首相は初めて中国を名指しして、その脅威を訴え、法案の必要性を説いた。今後の中国との外交にも影響を及ぼしそうだ)。質問ははぐらかされ、答弁が質問の答にならない。話に具体性がなく、言葉はうわすべるばかりだ。元々双方が分かり合えないことを前提にしているから、対話が成り立たない。自分は、国会の審議に象徴される「対話が成り立たない」状況に、日本の民主主義の危機を感じる。

「安全保障関連法案」に反対の立場をとる側は、この法案を「戦争法案」と呼ぶ。その言葉は、「お守り言葉」から奪われた意味を取り戻して、隠された本質をさらけ出し、自分達の身を守るために生まれた言葉だと思う。
先週、京都の実家に帰ったときに、母と姉と自分の3人で、「戦争法案」という言葉の使用法について議論した。
戦争体験者である母は、今の時代の空気と戦時中を重ね合わせて大きな危惧と憤りを抱いており、「安全保障関連法案」には強く反対の立場である。母はこの法案の本質を伝えるために「戦争法案」という言葉を積極的に使用するべきだとの立場だった。

自分は、法案に反対の立場を取りながらも、自らが「戦争法案」という言葉を進んで使用することには躊躇があった。実家に帰る数日前、法案に反対する国会前での抗議集会に参加した時も、高揚の中で連呼される「戦争法案廃案」のシュプレヒコールには加わることなく、その光景を共感と戸惑いの入り交じった思いで眺めた。その場において「戦争法案」という言葉は、有無を言わさぬ印籠のような存在にも感じられた。
抗議集会の場には、自分と同じようにシュプレヒコールには参加しない人も大勢いた。今の国会前抗議集会には法案に反対するという思いの元に、一括りにできないさまざまな人間が集まっているのだと思う。

実家での議論の中で、自分がなぜ「戦争法案」という言葉の使用に躊躇を感じるのかを、うまく言語化できないことがもどかしかった。その言葉を感情的に多用することで、レッテルばりされることを避けたいとの思いが自分の中にあったことは確かだ。レッテルばりされ、決めつけられる時点で対話の扉は閉ざされてしまう。
社会的な発言をする上で、面倒に巻き込まれたくないという警戒心が「戦争法案」という言葉の多用をためらわせた面もあったと思う。けれど、それだけでは、自分が躊躇する感覚のすべてを説明することができなかった。

ツアーから戻った後の先週末、自分は再び国会前の抗議集会に足を運んだ。法案への反対を表明するためだけでなく、歴史的な現場に立ち会いたい、2次、3次情報ではなく、この目で状況を確かめたいとの思いも強かった。
集会の規模が大きすぎて全体を把握することは難しかったけれど、自分の見た限り、場の高揚は前回を上回っていた。同時に、警察の警備も厳しさを増し、緊迫の度合いの高まりを感じた。
終了予定時間の午後9時を超えても抗議集会は終わらず、集会を主催するSEALDs(シールズ)の学生達による激しいシュプレヒコールが、そこから途切れる事無くおよそ30分間続いた。コールが繰り返される度に、彼らの「怒り」のエネルギーがどんどん増大してゆくように感じられた。そのエネルギーにまぶしさと頼もしさと圧力を感じた。もはや、その場に「祈り」の入り込む余地はないように思えた。彼らの主張と叫びは大きな力を持って広がっていた。
正直に言うと、その場にいた自分は、この増大するエネルギーに「恐れ」の感情も抱いた。自分は元々、集団の高揚に対する恐怖心が強く、集会やデモには向かないタイプなのだと思う。
自分は、この「怒り」による巨大なエネルギーを受け取る政権側のプレッシャーを想像した。これだけの群衆に国会の回りを取り囲まれたら、やはり怖いと思う。与党の政治家までもがシールズに関するデマを流している状況は、その「恐れ」の裏返しのようにも思える(それにしても、著名な作家や経済学者、政治家までもがシールズやデモや集会に対するひどいデマを流し、それらを多くの人達が鵜呑みしてネット上で拡散する状況には、暗澹とした気分になる)。

この日も当然「戦争法案廃案!」のシュプレヒコールは幾度となく繰り返され、自分はやはりコールには参加しなかった。シールズの若者達によっていくつかのスローガンがローテーションになって繰り返される中で、特に印象に残ったのは、「民主主義ってなんだ」「民主主義ってこれだ」という2フレーズがセットになったコールだった。
「問いかけ」の後にはすぐ「答」が用意されていた。自分はその場の「答」よりも「問いかけ」を持ち帰ることにした。「民主主義」が何であるかの「答」は1つではない。その「答」をそれぞれが自分なりに考え、自分の言葉で見つける作業も大切だと感じる。

集会に参加する前に鶴見氏の訃報を知ることで、自分は氏の定義した「お守り言葉」のことを思い出していた。そうすると、今まで言葉にできなかった感覚の正体が少しずつ明らかになってゆくように思えた。
自分は「戦争法案」という言葉を否定しない。しかし、「お守り言葉」から自分達の身を守るために生まれたその言葉も、「お守り言葉」としての機能を有しているのだと思う。「戦争法案」という言葉の影響力が強まる程に、思考が単純化され、対話が奪われ、煽動の危険性が高まることも忘れずにいたい。あくまでも言葉に対する問いかけを続けてゆくべきだと思う。

戦後を象徴する「民主主義」という言葉も、その問いかけを留めた時点で、都合のよい「お守り言葉」として利用される可能性を含んでいるのだと思う。ある人は「多数決こそが民主主義だ」と言う。しかし、その多数決の中からも「独裁」が生まれた歴史を忘れるべきではない。「民主主義」とは何であるかを問い続けたいと思う。
出来合いのフレーズや主義主張に寄るばかりでなく、体験し、自分の頭で考え、自分なりの言葉や伝え方を探し続けることの大切さを、この時代の中でより強く感じる。そのためには、他者との出会いと経験に基づく実感が不可欠だ。
そういった積み重ねが民主主義の根幹を支え、対話の可能性を生み出すのだと思う。自分は、対話が成り立たなければ民主主義は終わると考えている。立場の違う相手にも伝わる言葉を探したいと思う。

作家の高橋源一郎氏は、週刊プレイボーイ誌のインタビューの中で、http://wpb.shueisha.co.jp/2015/07/14/50697/3・11が明らかにしたのは、この国の「対話の非存在」であり、この国にはそもそも民主主義は存在しなかったのでないかと問題提起している。しかし、氏はそのことを悲観するのではなく、むしろそこに気づくことで、民主主義を探し始めるきっかけになるのではないかと語る。
この国に「民主主義は存在しなかった」かどうかはさておき、「民主主義を探し始める」という姿勢に共感を覚える。

自分は、戦後の日本が民主主義の理想を体現してきたとは思わない。戦後民主主義を支えた「民主」「自由」「平和」「人権」といった「お守り言葉」の実体を検証し直す作業も必要だと考える。
それぞれが「民主主義」を問い直し、その考えを持ち寄り、時にはぶつかり合いながらも、ともに「民主主義を探す」作業を丁寧に続けることが、風通しのよい未来を切り開いてゆくのではないかと思う。
ー2015年7月29日(水)

2015年7月24日金曜日

石田長生さんのこと

7月8日午前、随分とご無沙汰している知人からFacebookを通じて個人宛のメッセージが届いた。ギタリストでシンガーの石田長生さんの訃報を知らせる連絡だった。自分にとって石田さんは、学生時代から大変お世話になった大切な先輩だった。
今年の3月に食道がんの手術と治療のため大阪の病院に入院した石田さんの容態が芳しくないらしいことは、数人から聞いていた。先月仕事で大阪に行く際には、入院中の石田さんのお見舞に行くべきかどうか悩んだ。そのときにお見舞いを見送ったことが、今になって悔やまれる。
ツアーのスケジュールが入っていたため、石田さんの通夜にも告別式にも参加することができなかった。後でFacebookを通して、告別式で有山じゅんじさんが弔辞を読まれたことを知った。有山さんも大変お世話になり大きな影響を受けた先輩なのだが、その有山さんを自分に紹介してくれたのが石田さんだった。
有山さんの弔辞の内容を知って、何とも言えない気持ちになった。病床での石田さんの思いや、残された近しい人達の気持ちを想像して胸が締め付けられた。

石田さんが亡くなってからも、自分の暮らしは慌ただしく続いた。ツアーから戻った後は、5度目の尿管結石で数日苦しんだ末にどうにか石を排出し、不安な体調のまま安保法制の強行採決に異議を唱えるため国会前の抗議集会に参加し、翌日からまたツアーに出た。
その間、石田さんを知る人に会えば、なるべく石田さんの話をするようにした。そうすると忘れていた石田さんとのさまざまな思い出が次から次へと思い出された。その思い出のすべては無理にしても、文章にまとめておきたい、それが自分の石田さんへの追悼になるのではと思った。長い文章になりますが、お付き合い下さい。

大学3回生の頃、京都のライブハウス磔磔までシンガーソングライターの友部正人さんのライブを観に行った。その時のゲストギタリストが石田さんだった。ライブを観に行く際、鞄の中に自分のピアノ弾き語りのカセットデモテープを2つしのばせた。あわよくば終演後、石田さん、友部さんそれぞれに手渡そうと目論んでいたのだ。
磔磔は楽屋が2階にあって屋外に出るには1階の客席を通らなければいけない。自分は終演後も客席に居残り、2人を待ち続けた。
2階の楽屋から客席に降りてきた友部さんは、一言で言えば、近寄りがたかった。当時の友部さんは独特の緊張感、威圧感をまとっていて、1ファンが気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった(ただ、友部さん本人は威圧している意識は皆無だったと思う。多分それが自然体だったのだろう)。客席に降り立った友部さんは、物販物の残りを受け取って、それらを収納してキャスターに巻き付け終えると、間を置くことなく磔磔を後にした。自分は、その友部さんの後ろ姿を、デモテープを持って固まったまま見送った。多分、声をかければ受け取ってもらえたのだろうと今にして思うけれど、当時はその結界を破る勇気がなかった。結果、友部さんとの出会いが2年程遅れた。

一方の石田さんは、友部さんとは対照的で、楽屋から客席に降りてくると、店を出ることなく、客席後方の座敷席に腰を下ろしてビールを注文し、スタッフや知人らしき人達と談笑を始めた。オープンな空気がこちらにも伝わってきた。これなら大丈夫そうだ。
自分は意を決して石田さんに近づきデモテープを手渡した。そのときのやり取りは忘れてしまったけれど、石田さんの気さくさが、とてもありがたかったことを覚えている。

磔磔で石田さんにデモテープを渡して多分1週間も経たない頃、自分がレギュラーで月2回出演していた十三のファンダンゴというライブハウスでいつものようにピアノの弾き語りをしていたら、10人にも満たないお客さんの中に、石田さんの姿を発見した。デモテープを聴いて興味を持ち、観に来てくれたのだという。驚いたし、すごく嬉しかった。それから石田さんとの交流が始まった。

ほどなくして、当時石田さんがやっていたバンド、ボイス&リズムのバナナホールでのワンマンライブのオープニングアクトに抜擢してもらい、続けて、石田さんのファンダンゴでのライブにもゲストで呼んでもらった。自分のライブイベントに石田さんにゲストとして出演してもらったこともあった。無名の学生アマチュアミュージシャンのライブに名の知れたプロが参加するというのは、なかなかあり得ないことだ。
大学を卒業したら就職せずプロのミュージシャンを目指すことを考え始めていた当時の自分にとって、石田さんとの出会いは大きな出来事だった。とても勇気づけられたし、自信にもなった。少し道がひらけたようにも思えた。

石田さんにはプラベートでもお世話になった。お互いプロレス好きということもあって、プロレス団体が大阪に興行しにやってくるときは、石田さんからお誘いの連絡をもらうようになった。石田さんの知人らと一緒にプロレス観戦し、その後はミナミに飲みに連れていってもらうのが恒例で、憂歌団の花岡さんもその中のレギュラーメンバーだった。その酒の席には、石田さんのつてでテレビや会場でしか観たことのなかったプロレスラーが参加することもあった。
いつも賑やかで楽しいお酒だった。ファンキーな男女が集うミナミの酒場の空気は、今の自分のお酒の飲み方にも影響を与えているかもしれない。

当時、石田さんと2人きりで飲ませてもらう機会があって、そのときのことも忘れられない。それは、皆で楽しく騒ぐ普段のお酒とは違っていた。当時の石田さんはプライベートは決して順調ではなかったようで、その酒の席で唐突に「リクオ、オレ嫁さんとうまいこといってなくて、多分離婚すると思うわ」と明かされた。どうリアクションしてよいのかわからず戸惑う一方で、こんな若造にも弱い面を見せてくれるその人柄に、より親しみを感じた。

酒の席で石田さんが何度も真面目な顔で「オレは野垂れ死にする気がしてんねん」と語っていたのも強く印象に残っている。自分には、その言葉は、どんな状況になっても音楽を演り続けるのだという決意表明のように感じられた。
2人きりになると、石田さんはより素直に対等に接してくれた印象があり、そういうときに石田さんが見せる「哀愁」や「素直さ」が、自分の中の石田さんのイメージの1部分となった。
考えてみれば、当時の石田さんはまだ34、5歳くらいの年齢で、今の自分よりもずっと年下だったのだ。自身もさまざまな不安や葛藤の最中であったのではないかと今にして思う。そんな自身の姿を石田さんは、学生のアマチュアミュージシャンだった自分にも、素直に見せようとしてくれていた気がする。
自分がお世話になった先輩ミュージシャンは皆、「素直」と「誠実」を感じさせてくれる人達ばかりだった。この文章を綴りながら、自分はいい出会いに恵まれているなあとつくづく思う。

自分もプロミュージシャンとしてのキャリアを重ねるようになると、石田さんとは、酒の席で自我やプライドをぶつけあって険悪になることもあった。石田さんにとって、自分は少し生意気な後輩だったかもしれない。
数年前、石田さんを含めた数人で下北沢で飲み明かしたことがあった。そのとき、かなり酔った石田さんから随分ときついことを言われて腹を立て、自分も刺のある言葉で言い返し、場が険悪な雰囲気になってしまった。自分は腹を立てたまま朝の7時頃に店を出たのだが、石田さんはそのまま店に残って飲み続けた。腹が立ったのは耳の痛いことを人前で言われたからでもあった。

それから1週間程して、大阪で知り合いのバンドのライブを観に行った時、会場で偶然に石田さんと遭遇して、また飲みに誘われた。石田さんへのわだかまりはまだ残っていたのだけれど、断る選択肢はなかった。石田さんと2人きりのお酒は久し振りだった。
自分は嫌な事を心にためることがあまりできない質なので、先週の下北沢の酒席でのわだかまりを正直に話した。
こちらの話を一通り聞いた後、石田さんは申し訳なさそうに「リクオ、オレ酔ってて全然覚えてへんけど、すまんかったな。今日はお詫びにオレにおごらせてくれ。」と言って、その日のお代をすべて支払ってくれた。
石田さんの言葉と態度によって、わだかまりは消えてしまった。自分もようやく素直な気持ちになることができて、下北沢では買い言葉とはいえお世話になった先輩に失礼な物言いをしたことを申し訳なく思った。もしかしたら石田さんはあの時のことを本当は覚えていたのかもしれないと思う。

文章を綴れば綴る程、石田さんともっと飲みたかったし、話したかったし、もっと一緒に演奏したかったという思いがつのる。そして、自分は石田さんに認められたかったのだなあ、褒められたかったのだなあとも思う。
石田さんには色んなアドヴァイスをしてもらった。時には厳しい言い方をされて腹を立てたりもしたけれど、もうそんな風に言ってくれる人が回りにほとんどいなくなってしまったことが寂しい。

デビューから8年間お世話になった事務所を辞めたばかりの頃、大阪から東京に越してきて間もない石田さんの阿佐ヶ谷の部屋にお邪魔して、確定申告のやり方を教えてもらった。こういう時の石田さんは本当に親身なのだ。今も石田さんに教えてもらった確定申告のやり方を忠実に守っている。
石田さんの部屋の隅には束になった東スポが積みあげられていた。「リクオ、オレはここで毎日ヒンズースクワットやってるんやで」と、なぜか自慢げに話す石田さんの姿を思い出す。

いくつになっても練習や鍛錬を自分に課すことのできる人だったと思う。石田さんのテクニカルなギターはそうした積み重ねによって支えられていた。ずば抜けた演奏技術を維持しながら、自身の不器用さを謙虚に自覚していて、準備を怠らない人だった。石田さんからは「練習せいよ」と何度も言われた。
テクニカルなギタリストが失くしがちな人間臭さや歌心が石田さんのギターからは充分感じられた。自身がシンガーであったことも影響していると思う。
特に複数のセッションの時に石田さんがみせるアグレッシブなギターは、闘いに挑む格闘家の姿とだぶった。負けず嫌いな性格が反映されていたのだと思う。個人的には、シンガーに最大のリスペクトを表して抑制気味にギターを弾くときの石田さんの色気により魅力を感じた。
石田さんは亡くなる2日前まで病室でギターを練習していたそうだ。

5年前、自分のデビュー20周年を記念するライブイベントを下北沢で開催した時に、ゲストの1人として石田さんに出演してもらった。出演をお願いするため久し振りに石田さんに電話したら「リクオがオレを誘うのは久し振りやな」と言われて、少しドキリとした。
本番当日、石田さんの盟友であるヒップランドの阿部登さんが他界した。当日、石田さんは阿部さんが入院していた大阪の病室から直接会場入りした。
その日のステージで石田さんとRCサクセションの「スローバラード」をセッションした。ボーカルは自分と多和田えみちゃんでパート分けをして歌った。ドラムは坂田学、ベースは寺岡信芳。めずらしく石田さんはテレキャスターをエフェクターに通さずアンプにダイレクトでつないだ。
そのときの共演を作品に残せて本当に良かったと思う。魂を揺さぶる最高のギターだった。演奏後、自分はひどく感動して、石田さんとしばらく肩を抱きあった。石田さんの肩越しで、誰にもばれないように少しだけ泣いた。
そう言えば、あの時も石田さんと朝まで飲んだなあ。

石田さんの回りには同時代を生きた同世代の盟友が数多く存在した。刺激し合い、支え合い、ケンカし合える、端から見ていてホントに羨ましく思えるステキな関係だった。
昨年夏、石田さんと同じ食道がんで亡くなったベーシストの藤井裕さんをお見舞いした時に、裕さんと石田さんの話になった。とにかく石田さんがしょっちゅう見舞いに来てくれるのだと言う。「リクオ、持つべきもんは友達やなあ」と裕さんがしみじみと語っていたのを思い出す。
石田さんはこれまで同世代の仲間をたくさん見送ってきたけれど、こんなに早く自分が見送られることになるとは予測していなかっただろうと思う。入院直後の石田さんから受け取ったメールには「心配かけて、かえって悪かったね…。しかし、私は生き続けるのだ!」と打たれていた。

先週末、ツアーの合間に大阪ミナミで行われた知人の結婚パーティーに参加した。午後8時にはパーティーが終演したので、その後は若い頃に石田さんに連れていってもらったバーなどを含め、ミナミの飲み屋を4軒ハシゴした。
4軒めにたどり着く頃には、自分は相当な酔っ払いに仕上がっていた。最後のお店は、アメリカ村の外れにあるカウンターだけの小さなミュージックバーで、石田さんも馴染みの場所だった。
お店に到着したらまずマスターに、石田さんによるザ・バンドのカヴァー「ザ・ウェイト(THE WEIGHT )」を流してほしいとリクエストした。けれど、リクエスト直後に、もし今その曲を聴いたら自分の感情が押さえられなくなりそうな気がして、すぐにリクエストを取りやめた。「実は自分もまだ石田さんの声やギターが聴けないんですよ」とマスターが言った。

それからほどなくして3人のお客さんがお店に入ってきた。その中の1人の顔に見覚えがあった。なんと、自分に最初に石田さんの訃報を伝えてくれたNさんだった。そして驚くことに、Nさんが紹介してくれたお連れの1人の女性が、昨年再婚したばかりの石田さんの奥さんだったのだ。
石田さんを想ってミナミで飲んでいたら、石田さんの訃報を伝えてくれたNさんと石田さんの奥さんに出会うなんて、偶然の巡り合わせにしても出来過ぎた話だ。

初対面だった奥さんから「石田が会わせてくれたんやねえ」と言われて、自分もそのように思えた。それからは皆で石田さんの話をたくさんした。自分も石田さんへの思いを語った。
「病床で石田はリクオさんの話を色々と聞かせてくれたのよ。石田はリクオさんのことがホントに好きだった。」奥さんからそう言ってもらって、自分はもう言葉が出なくなった。

石田さんには本当に色々とお世話になったけれど、まだまだお返しがしきれなかった。せめて、石田さんが自分にしてくれたことを、次の世代の人達にやっていけたらと思う。

後日Facebookの個人宛メッセージを通じて石田さんの奥さんから連絡をいただいた。その文章は「これからも石田長生を宜しくお願い致します。」という言葉で締めくくられていた。
自分は、これからも繰り返し石田さんのことを思い出し、色んな場所で石田さんの話をし続けるだろう。自分だけでなく、石田さんの音楽と人柄に触れたすべての人達の心の中から、石田さんの存在が消えることは決してないと思う。

ー2015年 7月24日