2015年10月14日水曜日

辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと

沖縄県の翁長知事が米軍普天間飛行場の移設予定地の辺野古の埋め立て承認を取り消した。このニュースを受けて、まず思い浮かんだのは、辺野古で暮らす人達のことだった。これは、今から1年近く前、沖縄知事選直後というタイミングで、沖縄在住の2人の若いミュージシャン、ソウルフラワーユニオンの中川敬君、オレの4人のメンバーで辺野古を訪れ、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元住民の方を交えて飲ませてもらった体験が大きく作用している。

その酒の席で住民の方の話を聞いて感じたのは、「基地移設に反対する側も賛成する側も、辺野古に暮らす住民の立場には寄り添ってくれない、辺野古の未来については考えてくれていない」ことへの、強い不信と絶望、憤りだった。これは3・11以降に福島各地に何度も足を運び、住民の人達の話を聞いたときにも感じた思いと重なる。

その後、辺野古での出来事をブログにまとめようと何度か試みたけれど、できなかった。とても複雑でナーバスな問題が含まれていて、うまくまとめる自信がなかったし、ブログで公表することで誰かを傷つけたり、誤解を招くことも危惧した。今もその日の出来事のすべてをブログにまとめようとは思わない。

その日は、社交街を訪れる前にまず、辺野古への基地移設の反対運動で座り込みが続けられているテント村を尋ねた。辺野古の浜辺にあるテント村では、穏やかな表情で椅子に座り、編み物をしていた白髪のおばあさんと話をさせてもらった。聞けば、2004年からずっと座り込みを続けられていると言う。「私の老後は座り込みになってしまいました」と柔らかい笑顔で仰っていたのが印象に残った。辺野古の海は快晴に映え、穏やかで、とても美しかった。

 その後は米軍のヘリパッド増設が予定される高江に向かい、同じく反対運動で座り込みを続けるテント村を尋ね、夜に再び辺野古に戻り社交街へ入った。高江は随分と辺鄙な場所にあるのだなと感じた。

那覇から高速を使って辺野古まで車で約1時間。高江までは辺野古からさらに1時間強の時間を要した。自分の予想以上に那覇から遠く離れた距離で、本島南部の市街とは、景色も空気もまるで違っていた。辺野古も高江も、どちらも過疎地という点で共通していた。

「那覇で暮らす人達の中には、辺野古も高江も、本土の人と同じような感覚で、遠い存在と感じている人も結構多いかもしれない」
辺野古と高江を訪れる前日に、沖縄で暮らす知人からそんな話を聞いていて、意外に思っていたのだけれど、実際に現地に足を運ぶことで、その言葉が理解できるように思えた。辺野古も高江も、沖縄の都市部で暮らす人の目には映りにくい、生活圏からかなり離れた場所に存在しているのだ。

自分と中川君が辺野古の社交街に足を踏み入れることができたのは、同行してくれた沖縄在住の知人ミュージシャン2人のおかげだった。地区外から辺野古に来て基地移設反対運動をする人のほとんどが、区域の住民との接触を持たない中で、2人は社交街に足を運び続け、時間をかけて地元の人達との交流を重ねていた。


その日の社交街での飲み会は、さまざまな感情が行き交う、波乱含みの忘れられない夜になった。
よく飲み、よく歌い(カラオケ)、よく踊り、よく笑った後に、ようやく基地移設について皆で語り合った。話が核心に近づくほど地元の方の感情がたかぶり、怒り、哀しみ、やるせなさが噴出して、ついにはぶつかり合った。自分は、その感情の強さに戸惑い、圧倒され、次第に言葉を失くした。そのときの怒りや不信は、自分にも向けられていたのだ。
その夜の出来事は尾を引いた。その時のさまざまな場面や住民の人達から受け取った言葉を、その後何度も反芻した。

例えばこんな言葉だ。
「基地移設反対運動をしている人達は流行でやっているように感じる」
反対運動をしている人達にしてみれば、受け入れられない言葉だろう。しかし、辺野古で暮らす人達の立場に立てば、基地が来ようが来まいが、その後も辺野古で生きていかなければならないという現実がある。どちらの結論が出ても、過疎化の進む辺野古の問題は終わらないのだ(辺野古に200軒以上あったお店が今は12〜3軒にまで減ってしまっているそうだ)。基地移設に関する結論が出た後に、反対運動をしていた区域外の人達が、辺野古の将来について、共に考えてくれるのか。自分も含めた移設反対派は、こういった問いかけに向き合う必要があるのではないだろうか。
区域の住民にとっては、居住区のすぐそばで反対運動で騒がれることで、自分達の生活が阻害されているとの意識も強い。こういった不信は、区域の住民と辺野古で反対運動を行う人達との間に交流の場が確立されていないことにも原因があるように思える。

「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成、反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
自分は、この発言をした地元の方を基地移設容認派と認識していたので、最初聞いたときは聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃなかった。この言葉には諦念や絶望も含まれているように感じた。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設問題はイエスかノーで解決できる問題ではない。積極的には基地移設に賛成していなくても、この街で暮らし続ける限りは、移設問題を、自分達の暮らしと辺野古の街の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。

辺野古を訪れ地元の方から話を聞くまでは、社交街が入植者中心の街であることを、自分は全く知らなかった。キャンプ・シュワブができるときに米兵相手の商売ができるようにと奄美大島、宮古、八重山などの沖縄本島外から入植者を募集して生まれた街がアップルタウンだった。つまり、辺野古の街自体が、基地の存在によって生まれたと言えるのだ。
元々の辺野古住民は軍用地料を得て生活している人が多いそうで、小さな街の中で、入植者と元々の辺野古住民の居住地が上下2つに別れていた。

辺野古に足を運び、地元の方の話を聞くことで、自分はやっと辺野古について何も知らなかったということを自覚した。
それまで自分は、普天間基地の移設予定地としての「辺野古」には興味があっても、1人1人の生活が営まれている地域社会としての辺野古に興味を持つ機会が、ほとんどなかった。辺野古で暮らす人達を傷つけ、絶望させてきたのは、そういった態度だったのだ。

自分は辺野古基地移設に対しては反対の考えだけれど、辺野古や福島などの現地を訪れた体験によって、「その反対運動がその地域で暮らす人達1人1人の思いや立場を無視するものであってはならない」という思いも強くした。

最後に、インターネット情報サイト・ポリタスに掲載された「辺野古に暮らす私たちの願い」という記事での辺野古商工社交業組合会長・飯田昭弘さんの言葉にぜひ目を通してもらいたい。
http://politas.jp/features/7/article/407
飯田さんが語られているように、辺野古基地移設問題を考えるにあたっては、オール・オア・ナッシングばかりにとらわれず、「沖縄や辺野古の抱える複雑さ」に焦点をあて、辺野古の未来につながる議論もなされるべきだと思う。

ー2015年10月14日(水)

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