2015年12月8日火曜日

古謝美佐子さんのこと

沖縄民謡歌手の古謝美佐子さんが、6日(日)にSEALDsらが主催した日比谷野音の集会に参加して、辺野古基地移設に反対するスピーチをしたことを知って、さまざまな思いが巡った。

以前、古謝さんとイベントでご一緒させてもらった時の打ち上げの席で、米軍基地辺野古移設が話題になった。正直、打ち上げの場で、こんなナイーブな問題をウチナーの古謝さんが正面向いて話してくれるとは思わなかった。その話題の中で、古謝さんは自分の生い立ちを話して聞かせてくれた。
「両親は米軍嘉手納基地で働きながら自分を育ててくれた。父親は、自分が幼い頃に、基地内の事故で亡くなった(アメリカ軍の車両にひかれて亡くなられたそう)。けれど、自分には基地に育てられたという思いもある。日本に存在する米軍基地の70%が沖縄に集中しているのはおかしいことだと思うし、辺野古への基地移設も反対だけれど、基地で働いていた地元の人達とのつながりもあり、そういった人達の気持ちを気遣うと、自分が声を上げて辺野古移設に反対することには躊躇がある」そんな内容の話だったと記憶している。

古謝さんが、辺野古基地移設反対の意志を公に表明し行動するようになったのは、最近のことだ。自分が声を上げることで誰かを傷つけることも覚悟した上での、さまざまな葛藤を経ての行動だと想像する。古謝さんの思いのすべてを知ることはできないけれど、その葛藤を想像することが、この問題を自分の問題としてとらえることにつながってゆく気がしている。

古謝さんを中心として結成された沖縄民謡女性4人グループ「うないぐみ」と坂本龍一氏のコラボレーションで10月にリリースされた曲「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」には、古謝さんの思いが凝縮されているように感じる。 https://www.youtube.com/watch?v=JUDG_LSSyZ8 自分が知る今年リリースされた中で最も心揺さぶられた歌の一つだ。

自分も運営に関わっていた「海さくらミュージックフェスティバル」という江ノ島の展望台で開催されていた野外フェスに古謝さんに参加してもらったときのこと。
古謝さんの歌は、すべてを包み込むような包容力で天高く響き渡り、神がかっていた。ステージが始まってしばらくすると、不思議なことに、たくさんの鳶が古謝さんの頭上高くに集まり、中空で旋回を始めた。その数はどんんどん増え続け、旋回は古謝さんのステージが終わるまで続いた。忘れられない光景、体験だった。
古謝さんの歌は天と地と人を繋ぐ。天と地、自然との繋がりがなければ人間は生きてゆけない。人も自然の一部であり、人だけの繋がりだけでは生きてゆけないのだ。古謝さんの歌は、そんな当たり前のはずのことを思い出させ、感じさせてくれる。

辺野古の基地移設は日本の安全保障や沖縄の植民地的なあり方だけが問題ではない。人が自然の一部として、どう繋がり合って生きてゆくべきなのかも問われている。「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」という歌には、そんな問いかけと祈りが込められていると感じる。

 ー2015年 12月8日(火)

2015年10月27日火曜日

TSUTAYA(ツタヤ)図書館問題と湘南T-SITEについて感じたこと

各地の公共図書館で指定管理者として業務を請け負っている民間企業、図書館流通センター(TRC)が、レンタル大手TSUTAYA(ツタヤ)を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)との図書館事業についての関係を解消する考えを表明した。最近、TSUTAYA管理の図書館に関する情報を追いかけていた自分にとって、タイムリーなニュースだった。
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015102601002183.html

図書館が民間企業に管理を委託するようになったのは、その運営に行き詰ったからだ。結果、TSUTAYA管理となった図書館は、集客増加に成功する一方で、貴重資料の破棄や選書、本の分類のやり方などが問題視されている。
そういった状況の中、愛知県小牧市のように、TSUTAYA管理の市立図書館建設計画に対して、市民の間に「図書館の質を落としかねない」などと反対論が広がることで、住民投票が行われ、反対多数の結果が出て、計画見直しを迫られる例も出始めている。
自分がこの問題に注視するようになり始めたのは、先月、自分が暮らす藤沢にできた書店とカフェを中心とした文化複合施設、湘南T-SITEに初めて足を運んだことが、一つのきっかけになっている。

湘南T-SITEは、2018年をめどに約1000戸の住宅が建ち、およそ3500人の住民が増加する計画Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)のランドマークとして、昨年年末にオープン。用地を提供したパナソニック側が、地域住民のカフェと書店が欲しいという要望に則して、代官山の蔦屋書店(代官山T-SITE)の存在をキャッチしてアプローチしたことでオープンが実現した。
http://real.tsite.jp/shonan/about/
自分がT-SITEに足を運んだ時は、平日に関わらず、施設はかなりのにぎわいだった。どの店舗も、おしゃれでスマート。居心地は悪くなかった。カフェと書店がつながっているのが嬉しいし、長く時間を過ごせる場所だと思った。もっと近所にあれば、頻繁に通うかもしれない。
でも、同時に違和感も残った。その感覚を、まだうまく言語化できずにいるのだけれど、本という存在がオシャレな雑貨として扱われていたことが印象的だった。それは、今後、書籍と書店が生き残ってゆくための一つの手段なのだろう。
その様を見て、音楽に携わる自分にとっても他人事ではないと感じた。今後、CDやアナログレコードも、グッズや雑貨の一つとしての要素をより強めてゆくのだろうと思う。

T-SITEの書店で、困ったことがあった。本の分類が独自でよくわからず、ほしい本がなかなか見つからないのだ。そこで自分が感じたのは、「本の内容は、あまり重視されていないのではないか」という疑問だった。売るための整理手段が優先されるのは、書店としては当然のことなのだろうけれど、本好きに対する配慮がもう少しほしい気がした。この本の分類に関しては、TSUTAYA管理の図書館でも問題視されている。

TSUTAYAは図書館の管理において、本来、図書館が最も果たすべき「知の集積場所」としての機能よりも、別のものを優先させようとしたのだろう。その姿勢には疑問を感じるけれど、図書館にカフェがあるのは嬉しいし(スターバックスでなくてもいいけれど)、そんな図書館が近所にあれば、頻繁に通いそうだ。

自分が感じた違和感の正体の一つは、本やCD、レコード、そのものが本来持っている価値や思い入れがないがしろにされてゆくことに対するものだと思う。でも、それだけではない。
便利や快適、オシャレやスマートを求める一方で、無自覚にそういった方向へ向かうことへの警戒心とか危機感が自分の中で大きくなっている気がする。湘南T-SITEのあり方や、民間企業が図書館を管理するというやり方が、何か一つの大きな流れと結びついているように感じて、それを疑問なく受け入れていいのかなと考えてしまうのだ。
それでも、音楽と本とカフェが好きな自分は、T-SITEとTSUTAYA管理の図書館が自宅近所にあれば、違和感を持ちながらも通うのだろう。ただ、それ以外の選択肢が残っていてほしいと思う。

ー2014年10月27日

2015年10月14日水曜日

辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと

沖縄県の翁長知事が米軍普天間飛行場の移設予定地の辺野古の埋め立て承認を取り消した。このニュースを受けて、まず思い浮かんだのは、辺野古で暮らす人達のことだった。これは、今から1年近く前、沖縄知事選直後というタイミングで、沖縄在住の2人の若いミュージシャン、ソウルフラワーユニオンの中川敬君、オレの4人のメンバーで辺野古を訪れ、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元住民の方を交えて飲ませてもらった体験が大きく作用している。

その酒の席で住民の方の話を聞いて感じたのは、「基地移設に反対する側も賛成する側も、辺野古に暮らす住民の立場には寄り添ってくれない、辺野古の未来については考えてくれていない」ことへの、強い不信と絶望、憤りだった。これは3・11以降に福島各地に何度も足を運び、住民の人達の話を聞いたときにも感じた思いと重なる。

その後、辺野古での出来事をブログにまとめようと何度か試みたけれど、できなかった。とても複雑でナーバスな問題が含まれていて、うまくまとめる自信がなかったし、ブログで公表することで誰かを傷つけたり、誤解を招くことも危惧した。今もその日の出来事のすべてをブログにまとめようとは思わない。

その日は、社交街を訪れる前にまず、辺野古への基地移設の反対運動で座り込みが続けられているテント村を尋ねた。辺野古の浜辺にあるテント村では、穏やかな表情で椅子に座り、編み物をしていた白髪のおばあさんと話をさせてもらった。聞けば、2004年からずっと座り込みを続けられていると言う。「私の老後は座り込みになってしまいました」と柔らかい笑顔で仰っていたのが印象に残った。辺野古の海は快晴に映え、穏やかで、とても美しかった。

 その後は米軍のヘリパッド増設が予定される高江に向かい、同じく反対運動で座り込みを続けるテント村を尋ね、夜に再び辺野古に戻り社交街へ入った。高江は随分と辺鄙な場所にあるのだなと感じた。

那覇から高速を使って辺野古まで車で約1時間。高江までは辺野古からさらに1時間強の時間を要した。自分の予想以上に那覇から遠く離れた距離で、本島南部の市街とは、景色も空気もまるで違っていた。辺野古も高江も、どちらも過疎地という点で共通していた。

「那覇で暮らす人達の中には、辺野古も高江も、本土の人と同じような感覚で、遠い存在と感じている人も結構多いかもしれない」
辺野古と高江を訪れる前日に、沖縄で暮らす知人からそんな話を聞いていて、意外に思っていたのだけれど、実際に現地に足を運ぶことで、その言葉が理解できるように思えた。辺野古も高江も、沖縄の都市部で暮らす人の目には映りにくい、生活圏からかなり離れた場所に存在しているのだ。

自分と中川君が辺野古の社交街に足を踏み入れることができたのは、同行してくれた沖縄在住の知人ミュージシャン2人のおかげだった。地区外から辺野古に来て基地移設反対運動をする人のほとんどが、区域の住民との接触を持たない中で、2人は社交街に足を運び続け、時間をかけて地元の人達との交流を重ねていた。


その日の社交街での飲み会は、さまざまな感情が行き交う、波乱含みの忘れられない夜になった。
よく飲み、よく歌い(カラオケ)、よく踊り、よく笑った後に、ようやく基地移設について皆で語り合った。話が核心に近づくほど地元の方の感情がたかぶり、怒り、哀しみ、やるせなさが噴出して、ついにはぶつかり合った。自分は、その感情の強さに戸惑い、圧倒され、次第に言葉を失くした。そのときの怒りや不信は、自分にも向けられていたのだ。
その夜の出来事は尾を引いた。その時のさまざまな場面や住民の人達から受け取った言葉を、その後何度も反芻した。

例えばこんな言葉だ。
「基地移設反対運動をしている人達は流行でやっているように感じる」
反対運動をしている人達にしてみれば、受け入れられない言葉だろう。しかし、辺野古で暮らす人達の立場に立てば、基地が来ようが来まいが、その後も辺野古で生きていかなければならないという現実がある。どちらの結論が出ても、過疎化の進む辺野古の問題は終わらないのだ(辺野古に200軒以上あったお店が今は12〜3軒にまで減ってしまっているそうだ)。基地移設に関する結論が出た後に、反対運動をしていた区域外の人達が、辺野古の将来について、共に考えてくれるのか。自分も含めた移設反対派は、こういった問いかけに向き合う必要があるのではないだろうか。
区域の住民にとっては、居住区のすぐそばで反対運動で騒がれることで、自分達の生活が阻害されているとの意識も強い。こういった不信は、区域の住民と辺野古で反対運動を行う人達との間に交流の場が確立されていないことにも原因があるように思える。

「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成、反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
自分は、この発言をした地元の方を基地移設容認派と認識していたので、最初聞いたときは聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃなかった。この言葉には諦念や絶望も含まれているように感じた。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設問題はイエスかノーで解決できる問題ではない。積極的には基地移設に賛成していなくても、この街で暮らし続ける限りは、移設問題を、自分達の暮らしと辺野古の街の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。

辺野古を訪れ地元の方から話を聞くまでは、社交街が入植者中心の街であることを、自分は全く知らなかった。キャンプ・シュワブができるときに米兵相手の商売ができるようにと奄美大島、宮古、八重山などの沖縄本島外から入植者を募集して生まれた街がアップルタウンだった。つまり、辺野古の街自体が、基地の存在によって生まれたと言えるのだ。
元々の辺野古住民は軍用地料を得て生活している人が多いそうで、小さな街の中で、入植者と元々の辺野古住民の居住地が上下2つに別れていた。

辺野古に足を運び、地元の方の話を聞くことで、自分はやっと辺野古について何も知らなかったということを自覚した。
それまで自分は、普天間基地の移設予定地としての「辺野古」には興味があっても、1人1人の生活が営まれている地域社会としての辺野古に興味を持つ機会が、ほとんどなかった。辺野古で暮らす人達を傷つけ、絶望させてきたのは、そういった態度だったのだ。

自分は辺野古基地移設に対しては反対の考えだけれど、辺野古や福島などの現地を訪れた体験によって、「その反対運動がその地域で暮らす人達1人1人の思いや立場を無視するものであってはならない」という思いも強くした。

最後に、インターネット情報サイト・ポリタスに掲載された「辺野古に暮らす私たちの願い」という記事での辺野古商工社交業組合会長・飯田昭弘さんの言葉にぜひ目を通してもらいたい。
http://politas.jp/features/7/article/407
飯田さんが語られているように、辺野古基地移設問題を考えるにあたっては、オール・オア・ナッシングばかりにとらわれず、「沖縄や辺野古の抱える複雑さ」に焦点をあて、辺野古の未来につながる議論もなされるべきだと思う。

ー2015年10月14日(水)

2015年9月16日水曜日

煽動について

2015年9月15日 Facebookより転載

自分は足を運ぶことができなかったけれど、国会前には昨夜も凄い数の人達が集まった。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150914/k10010234441000.html
違和感を持ったなら、誰もが疑問の声を上げて行動できるのが民主主義の社会。この状況に於いて、政治や社会に対して怒りを表明することも必要なんだと感じている(あくまでも罵倒や暴力には頼らずに)。
 
今国会前に集まる人達が煽られた集団だとの認識は間違っている。何度も国会前デモ集会に参加した者の印象として、そもそも一括りにはできない多様な集まりだと感じる。
とは言え、集団の熱狂に身をおいて、煽動に巻き込まれる怖さを感じる瞬間があることも確かだ。そのような怖さを感じながら、デモに参加している人の数は少なくないと想像している。
自分は、最も危険な煽動は、社会や他者に対する無関心を経た上で起こるのではないかと考える。過去の戦争に於ける煽動も、そのような無関心の先に成り立ち、煽る側と煽られる側が共犯関係を持って暴走してしまったのではないだろうか。

安保法案が成立しそうな差し迫った状況ではあるけれど、デモの高揚に身を委ねた後は、クールダウンして、日常の暮らしを維持することも大切にしたい。そのような日常を守るために、安保法案の採決強行に反対するのだ。

嬉しい再会 ー 榊いずみちゃん、竹原ピストル君と共演

2015年9月14日 Facebookより転載

昨夜は、町田市にオープンしたばかりのライブハウスまほろ座にて、榊いずみちゃん、竹原ピストル君と共演しました。とても楽しみにしていたイベントでした。
いずみちゃんとはお互いが学生の頃からの知り合い。ピストル君とは彼が野狐禅でデビューしたばかりの頃に名古屋で共演してから、多分3、4年に一度くらいの割合で共演してきました。
客席後方から2人のステージを観させてもらって、大げさに聞こえるかもしれないけれど、それぞれが経てきた人生を感じたり、想像したりしました。2人とも鋭利でありながらあったかい。その優しさとかあたたかさは、出会いや別れを繰り返しながら積み重ねされた経験の中で、より身についていったもののように感じました。
この日の自分のステージは、普段に比べると、盛り上がりや一体感よりも緊張感、言葉と歌を伝えることに重心をおいた内容になりました。これは、いずみちゃんとピストル君のステージから受け取った刺激と「言葉の森に棲む。」というイベントタイトル、そして、歌を聴こうとするお客さんの集中力に多いに影響された結果です。
前日のサウサリートとは笑ってしまうくらいに対照的なステージ。その場からの刺激によってパフォーマンスが変わってゆくのがライブの醍醐味だと思います。




オープンしたばかりのまほろ座は、大人もゆったりと楽しめる洒落た空間でした。料理も充実していて、ブルーノートの敷居をもっと低くした感じ。グランドピアノがあるのも嬉しいし、オレの好きなミラーボールも設置されてました(この日は照明スタッフが気を利かして1曲めからミラーボールを回してくれました)。
そうそう、ライブ終了後にお店のスタッフさんが、グランドピアノをとても丁寧に拭いてくれてる姿が印象に残りました。お店のスタッフの皆さんが皆愛想よく接してくれたのも嬉しかったです。
いずみちゃん、ピストルくんと共演させてもらって、2人との次回の共演も楽しみになりました。まほろ座にも近いうちに戻ってくると思います。観に来てくれた皆さん、ありがとう。とてもいい夜でした。
次回の東京公演は10月3日(土)渋谷BYGにて、リクオ with HOBO HOUSE BAND(ドラム:椎野恭一/ベース:寺岡信芳/ペダルスティール:宮下広輔)のワンマンライブです。これ、必見ですよ。
Photo by TAKUYA

マイルーツ ー 伊勢にて外村伸二と「2人で100歳記念ライブ」

2015年9月9日 Facebookより転載

昨日は伊勢市のおはらい町にあるカフェ、カップジュビーにて、「2人で100歳記念ライブ」と銘打って、シンガーソングライターでカップジュビーのマスターの外村伸二と共演しました。とても感慨深い夜でした。
外ちゃんとの出会いは大学に入ってすぐだから、もう30年を超える付き合いになります。学生時代に一緒にバンドをやっていた、自分にとって盟友ような存在です。当時は彼がボーカル&ギターで、オレはキーボード担当。
出会ったその日に外ちゃんの下宿に連れて行かれ、その時に初めてドクター・ジョンのアルバム「ガンボ」を聴かせてもらいました。自分のピアノスタイルに決定的な影響を与えた作品です。
それからも、たくさんのいい音楽を彼から教えてもらいました。この日一緒にセッションした「ミラクルマン」や「光」は、学生時代に彼を含めた音楽仲間と過ごした日々がなければ、生まれなかった曲です。オレの大切なルーツの1つとして外ちゃんの存在があると思ってます。
前日に50歳を迎えた外ちゃんと、30年の歳月を経て、こうやってまた同じステージに立って音を交わせることが、とても嬉しかったし、誇らしく思えました。この日のライブのために、古い仲間が方々から集まってくれたことも嬉しかったなあ。
昨夜の外ちゃんの歌、とてもしみました。
外ちゃんの作品は以下から試聴できます。彼の名曲「入道雲」ではオレがピアノで参加してます。ぜひ聴いてみて下さい。
https://itunes.apple.com/…/arti…/wai-cun-shen-er/id315129835
外ちゃんとは、110歳記念、120歳記念でも共演できたらいいなと思ってます。
さあ、今日もこれからステージです。
岐阜県関市の居酒屋さん「高橋商店」にて、今夜も弾けます。




2015年9月1日火曜日

「日常」の延長にある抗議ー8.30国会前抗議集会に参加して

8月30日(日)は、ツアー先の札幌から帰宅する前に、羽田空港から国会議事堂前に向かった。「戦争法案」と呼ばれる「安全保障関連法案」に反対するデモ集会に参加するためだ。この法案に反対するために国会前に足を運ぶのは今回が3度目になる。
以前のブログにも書いたけれど、今回のデモ集会に参加するにあたっても、法案への反対意思を示すことはもちろんだけれど、歴史的な現場に立ち会いたい、2次、3次情報ではなく、この目で状況を確かめたいという思いが強かった。だから、現場のただ中に身を置く一方で、少し俯瞰したスタンスで現場を見ようという気持ちも働いた。

自分が桜田門駅に到着したのは午後3時前で、集会の開始から既に2時間近くが経過していた。駅構内は、集会に向かう人達と、そこから戻ってくる人達が交差する形でにぎわっていた。どちらかと言えば、国会前から戻ってくる人の数の方が多く、その中の多数は60代以上と思われる高齢者が占めていた。高齢の人達にとって、長時間の集会への参加は、体力的に厳しく、早めにリタイアする人が多くなったのだろうと想像した。

桜田門駅の地下からの階段を上り、自分が国会前に到着した頃には、正門前車道は既に開放された後で、すごい人の数で埋まっていた。壮観だった。小雨の降り続く中、方々でシュプレヒコールや打楽器、管楽器の音などが鳴り響き、ある種のカオス状態が生まれていた。
車道が開放されたことによって得られる開放感は想像以上だった。今まで参加したデモ集会の中で、一番気持ちが明るくワクワクした。
Photo by Rikuo

Photo by Rikuo



正門前車道の後方は、前方に比べると人の密集度が低く、個人参加、あるいは小グループ参加による人達が、それぞれに思い思いのアピールをしているのが印象に残った。方々でそれぞれが勝手にアピールする様は、かつての渋谷ホコ天を思い起こさせた。
Photo by Rikuo

Photo by Rikuo


団体行動の苦手な自分が、これまでよりは違和感少なく集会に参加できたのは、こういった解放的で自由な空気、ある種の「ゆるさ」が現場に混在していたからだと思う。メディアに取り上げられることの少ない集会の前線からはずれた場所の空気感にもスポットが当たれば、デモや集会に対するイメージは、また変わる気がする。

今年の7月以降、国会前の集会に2度参加して、この集会の規模で参加者を歩道に押しとどめておくことには、限界が近づいていることを実感していた。警察の厳しい警備の中、歩道に押し込められての抗議は、緊迫感が強く、息がつまる思いがしたし、危険も感じた。
この日の現場に向かう前は、警察の制止を振り切って、車道が決壊し、国会前に人が押し寄せた場合に、暴徒化や事故が起きることを危惧していたのだけれど、それは杞憂だった。
考えてみれば、’12年以降、自分が今まで参加してきたデモ集会で、参加者が暴徒化したり事故が起きたことは一度もなかった。これは主催者側の努力の積み重ねと、デモ集会への参加者と主催者側が「暴力には訴えない」という意識を共有したことによる成果なのだろう。
Photo by Rikuo

正門前の車道を前方に進み、参加者の密集度が高まるにつれ、場の空気が引き締まってゆくのを感じた。やはり、前方の盛り上がりは、後方にはない緊張感を含んでいた。密集した人の圧力に危険を感じることもあった。ただ、今回のデモ集会には「逃げ場」が存在した。前線にいて息がつまれば、一旦後方に下がることも可能だった。

Photo by Rikuo

前方では、野党党首や宗教家、作家、弁護士、ミュージシャンら、さまざまなジャンル、業種の人達がスピーチを繰り広げていた。そのすべてを聞くことはできなかったけれど、自分が聞いた中では、特にSEALDsら若者達による瑞々しいスピーチが素直に心に響いた。彼らの名古屋弁や熊本弁によるシュプレヒコールもよかった。
集会の中で、口汚い言葉やコールが聞こえてるくると、やはり少し心が痛んだ。「ナイーブ」だと言われようとも、こういう感性を、どんな状況でも維持し続けたいと思う。現場にいて、もっと自分が参加したくなるようなシュプレヒコールがあればいいのになとは思った。

集会に参加している間は、1つの場所にばかり留まらず、なるべく歩き回って多くを見るよう心掛けた。メディアは国会正門前の様子ばかりを報道していたけれど、集会に集まった人達は国会議事堂回りの広範囲に渡っていた。
自分も集会の全体を把握できたわけではない。集会を後にしてから、ネットやテレビのニュースなどで集会の情報を補い、それによって初めて知ることも多かった。国会正門前の歩道が決壊した瞬間も後でYouTubeで確認したし、坂本龍一さんがスピーチしたことも、高校生達が「ケサラ」を歌っていたことも、現場では確認できず、後で知った。
この長時間の開催の中で、集会の最初から最後まで参加していたのは、全体の中のごく限られた一部だろう。どの時間帯に、どの場所に居合わせたかによって、この日の集会に対するイメージは、それぞれに違いが生じると思う。自分がそこで見た光景が集会全体のすべてとは言えない。
そもそも、このデモ集会を統一したイメージで語ることには無理があるように感じられる。そして、恐らくその統一感のなさが、自分の「居やすさ」につながった。

この日の集会の参加者数は警察発表が3万人強で、主催発表は12万人だった。いつものことだが、その数字には大きな開きがある。そんな中、産経新聞が参加者数を試算し、国会正門前は多くても3万2千人程度と記事にしていたけれど、http://www.sankei.com/politics/news/150831/plt1508310051-n1.html実際に国会前に足を運び、その集会の広範囲を確認した人なら、この試算の間違いをすぐに指摘できるだろう。
産経新聞はデモ集会の参加者を国会正門前の一部分に限定して試算しているけれど、実際の参加者は国会回りのもっと広範囲に渡っている。しかも時間帯によってかなり参加者が入れ替わっているにもかかわらず、この試算は入れ替わりの人数が加算されていない。となると、実際の参加者数は産経新聞の試算を遥かに上回ることになる。この動画を見てもらえば、集会の規模と範囲の広さが伝わるかと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=6ohr-TAI14M#t=10  多分、実際の正確な数字は誰も把握できていないのだろうと思う。


参加者の1人の実感として、間違いなく言えることは、この集会には一括りにできない多様な人達が参加していたということだ。現場の熱気と開放感は、自分の意志で足を運んだ一般参加者の存在によるところも大きいと思う。
さまざまな団体が動員をかけていたことも確かだろうけれど、集会を主催するSEALDsが大切に考えたのは、あくまでも個人の集まりであり、そういった姿勢と法案に反対する民意が結びつくことで、党派性に縛られない多数の一般参加者が呼び込まれたのだと思う。
SEALDsの若者達がスピーチをする近くで創価学会の三色旗が掲げられる光景に立ち会うなんて、ほんの少し前まで想像することができなかった。
家族連れの姿も多く見られ、多くの人達が日常の暮らしの延長という意識で抗議集会に足を運んでいる印象を受けた。デモ集会の形も変化しているのだ。

デモ集会を企画するSEALDsの奥田愛基さんはインタビューの中で「日常って感覚は、とても大事。おしゃれを気にしながら国会前に行ったっていい。ディズニーランドも行って、海も行って、国会前にも行けばいい。日常がある上で抗議すべきときは抗議するってことに意味があるんです。」と語っている。http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/24/sealds-okuda-interview_n_8030550.html
これらの言葉はとても重要だ。「『日常』の延長にある抗議」という姿勢は、SEALDsの新しさの1つだろう。「生活を美しくする」ことの1つに、デモや集会に参加するという行為が存在する。そういうイメージを自分も持ち続けたいと思う。
若者達の感性が、大人達の党派性や敵対関係、イデオロギーにとらえられ、巻き込まれることなく、「日常」と手を取り合いながら、しなやかに育くまれてゆくことを願う。

この日は国会前だけでなく全国300ヶ所以上で安保法案に反対するデモ集会が行われたそうだ。民主主義の世の中では、誰もが「政治」や「社会」に対して疑問の声をあげ、行動することができる。そんな当たり前を確認する1日でもあった気がする。
こういった行動が、「日常」から離れて先鋭化することなく、当たり前の行動の1つとして幅広くひろがってゆくことを願いながら、自分のできることを考えてゆこうと思う。
ー2015年9月1日(火)

2015年8月26日水曜日

死者との対話

最近、写真に写る自分を見て、その笑顔が自分の父親に似ていることに驚いた。
そんな風に感じたのは初めてのことだった。

小学生の頃の自分の密やかな楽しみの1つは、自分が両親の実の子供ではなく、よその子ではないかと想像を膨らますことだった。自分がよその子であれば、色々なことが腑に落ちるような気がしたし、そういう可能性を残しておくことで、自分がなんとなく抱いていた違和感を納得させようとしていたのかもしれない。
実際に当時は、自分と両親は、見た目も性格も共通点が極端に少ないように感じていたのだが、最近は、共通点ばかりが見えるようになった。

一昨年の10月に父を亡くして以降、世の中が穏やかならざる方向に向かう程に、父のことを思い出し、その視線や視点を感じる機会が増えてゆく気がしている。父に問いかけ、その返事を想像する。時には意見が合わなかったりもする。なんだか死者と対話している感じなのだ。
研究者であった父の大きなモチベーションは「怒り」だった。今の自分は、自身が抱えている「怒り」にどう向き合えばよいのか、それをどう表現すればよいのか、まだわからずにいる気がする。


数日前に打ち上げの席で後輩ミュージシャンと激しく議論した。お互い相当に酔って、感情的に言い合った。
翌日目が覚めて、昨夜の議論のことを思い出し、もっと別の言い方があったんじゃないかと思って、少し落ち込んだ。
そのときに7月に亡くなったばかりの先輩ミュージシャン石田長生さんのことを思い出した。石田さんとは酒の席で何度も議論したり説教を受けたりした。その時の石田さんの姿と昨夜の自分の姿がだぶった。自分は石田さんと似たところがあるなあと思った。
「リクオ、昨夜のオマエはちょっと言い過ぎたんちゃうか」
石田さんのそんな声が聞こえてきた。
翌日ツアーから戻ってから、議論した後輩ミュージシャンに電話した。これも石田さんのやりそうなことなのだ。

最近の自分は事ある毎にあの世の誰かを思い出している。逝ってしまった人達との過去を振り返るだけでなく、あの人なら今こんな時にどうしただろうかと考える。彼らが思い描いた未来の姿も想像する。
たくさんの先人がさまざまな軌跡を残してくれていて、未来へのヒントは過去にたくさん存在する。彼らが描いた心の現実が自分の視野を広げ、勇気を与えてくれる。

死者は以前よりも身近な存在になりつつある。その存在を感じることが、自分の気持ちを前向きにさせる。自分は死者とともに今を生き、未来を描こうとしている気がする。あの世に旅立ったあの人達は、これからもずっと自分のそばにいる。
ー2015年8月26日(水)

2015年7月29日水曜日

鶴見俊輔氏の「お守り言葉」から「戦争法案」という言葉を考える

哲学者、評論家の鶴見俊輔氏が亡くなられた。
自分の両親は、若い頃から鶴見氏のお世話になり、京都の実家の本棚には氏の著作が多数並べられていた。自分がそれらを本棚から取り出すことはほとんどなかったけれど、氏は自分にとってもどこか身近で親しみを感じさせる存在だった。
若かりし頃の両親は、鶴見氏らによって戦後すぐに創刊された「思想の科学」に、’60年代から’70年代にかけて、何度か文章を書いたそうだ。母によると、鶴見氏はとにかく褒め上手で、掲載された母の文章をいつもベタ褒めしたくれたと言う。母はそれが嬉しくて、氏から褒められたことを何人もの同世代の知人に話したところ、皆が一様に何かしらのお褒めの言葉を氏から受けとっていたことが判明し、少しがっかりしたそうだ。鶴見氏の人柄を表すエピソードに違いない。

鶴見氏は、「思想の科学」を創刊するにあたってまず、「大衆は何故、太平洋戦争へと突き進んでいったのか?」という問いをテーマに掲げ、「言葉のお守り的使用法について」という論文を発表する。その中で氏は、戦時中に国家が扇動的に用いたキャッチフレーズを「お守り言葉」と表し、以下のように語っている。

「言葉のお守り的使用法とは、擬似主張的使用法の一種であり、意味がよくわからずに言葉を使う習慣の一つである。軍隊、学校、公共団体に於ける訓示や挨拶の中には必ず之(これ)らの言葉が入っている。」

「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する『熱狂的献身』と米英に対する『熱狂的憎悪』とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた」

「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」

ここで言われる戦時中に用いられた「お守り言葉」「大量のキャッチフレーズ」とは、例えば「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」「鬼畜米英」「国体」などだ。政府はこれらの「お守り言葉」を使って政策を正当化し、戦争の実体を陰蔽した。
こうした言葉の多用は集団の思考停止とヒステリックをもたらした。やがて「お守り言葉」は、大衆を黙従させ、煽動に導く大きな力を持つようになった。自分は、今の日本において、こうした歴史が繰り返される不安を感じている。
「積極的平和主義」「安全保障関連法案(安保法案)」「戦後レジームからの脱却」「アベノミクス」「美しい国」といった言葉を生み出してきた安部政権は「お守り言葉」の使用に自覚的な政権だと思える。それらのフレーズが定着することによって、言葉の意味が書き変えられ、実体がうやむやにされたまま事が進んでゆく不安を覚える。

今月の7月15日、「安全保障関連法案」が衆院平和安全法制特別委員会で可決された。憲法違反との批判が渦巻く中での強行採決だった。
自分は、「安全保障関連法案」は、中国を第1の「敵」とみなし、アメリカへの追従を深め、「戦争可能な国」を目指すものだと考えている。しかし、国会の審議では、どれだけ時間を費やしても、法案の本質や本音がなかなか明らかにされない(今日の参議院での審議で、安部首相は初めて中国を名指しして、その脅威を訴え、法案の必要性を説いた。今後の中国との外交にも影響を及ぼしそうだ)。質問ははぐらかされ、答弁が質問の答にならない。話に具体性がなく、言葉はうわすべるばかりだ。元々双方が分かり合えないことを前提にしているから、対話が成り立たない。自分は、国会の審議に象徴される「対話が成り立たない」状況に、日本の民主主義の危機を感じる。

「安全保障関連法案」に反対の立場をとる側は、この法案を「戦争法案」と呼ぶ。その言葉は、「お守り言葉」から奪われた意味を取り戻して、隠された本質をさらけ出し、自分達の身を守るために生まれた言葉だと思う。
先週、京都の実家に帰ったときに、母と姉と自分の3人で、「戦争法案」という言葉の使用法について議論した。
戦争体験者である母は、今の時代の空気と戦時中を重ね合わせて大きな危惧と憤りを抱いており、「安全保障関連法案」には強く反対の立場である。母はこの法案の本質を伝えるために「戦争法案」という言葉を積極的に使用するべきだとの立場だった。

自分は、法案に反対の立場を取りながらも、自らが「戦争法案」という言葉を進んで使用することには躊躇があった。実家に帰る数日前、法案に反対する国会前での抗議集会に参加した時も、高揚の中で連呼される「戦争法案廃案」のシュプレヒコールには加わることなく、その光景を共感と戸惑いの入り交じった思いで眺めた。その場において「戦争法案」という言葉は、有無を言わさぬ印籠のような存在にも感じられた。
抗議集会の場には、自分と同じようにシュプレヒコールには参加しない人も大勢いた。今の国会前抗議集会には法案に反対するという思いの元に、一括りにできないさまざまな人間が集まっているのだと思う。

実家での議論の中で、自分がなぜ「戦争法案」という言葉の使用に躊躇を感じるのかを、うまく言語化できないことがもどかしかった。その言葉を感情的に多用することで、レッテルばりされることを避けたいとの思いが自分の中にあったことは確かだ。レッテルばりされ、決めつけられる時点で対話の扉は閉ざされてしまう。
社会的な発言をする上で、面倒に巻き込まれたくないという警戒心が「戦争法案」という言葉の多用をためらわせた面もあったと思う。けれど、それだけでは、自分が躊躇する感覚のすべてを説明することができなかった。

ツアーから戻った後の先週末、自分は再び国会前の抗議集会に足を運んだ。法案への反対を表明するためだけでなく、歴史的な現場に立ち会いたい、2次、3次情報ではなく、この目で状況を確かめたいとの思いも強かった。
集会の規模が大きすぎて全体を把握することは難しかったけれど、自分の見た限り、場の高揚は前回を上回っていた。同時に、警察の警備も厳しさを増し、緊迫の度合いの高まりを感じた。
終了予定時間の午後9時を超えても抗議集会は終わらず、集会を主催するSEALDs(シールズ)の学生達による激しいシュプレヒコールが、そこから途切れる事無くおよそ30分間続いた。コールが繰り返される度に、彼らの「怒り」のエネルギーがどんどん増大してゆくように感じられた。そのエネルギーにまぶしさと頼もしさと圧力を感じた。もはや、その場に「祈り」の入り込む余地はないように思えた。彼らの主張と叫びは大きな力を持って広がっていた。
正直に言うと、その場にいた自分は、この増大するエネルギーに「恐れ」の感情も抱いた。自分は元々、集団の高揚に対する恐怖心が強く、集会やデモには向かないタイプなのだと思う。
自分は、この「怒り」による巨大なエネルギーを受け取る政権側のプレッシャーを想像した。これだけの群衆に国会の回りを取り囲まれたら、やはり怖いと思う。与党の政治家までもがシールズに関するデマを流している状況は、その「恐れ」の裏返しのようにも思える(それにしても、著名な作家や経済学者、政治家までもがシールズやデモや集会に対するひどいデマを流し、それらを多くの人達が鵜呑みしてネット上で拡散する状況には、暗澹とした気分になる)。

この日も当然「戦争法案廃案!」のシュプレヒコールは幾度となく繰り返され、自分はやはりコールには参加しなかった。シールズの若者達によっていくつかのスローガンがローテーションになって繰り返される中で、特に印象に残ったのは、「民主主義ってなんだ」「民主主義ってこれだ」という2フレーズがセットになったコールだった。
「問いかけ」の後にはすぐ「答」が用意されていた。自分はその場の「答」よりも「問いかけ」を持ち帰ることにした。「民主主義」が何であるかの「答」は1つではない。その「答」をそれぞれが自分なりに考え、自分の言葉で見つける作業も大切だと感じる。

集会に参加する前に鶴見氏の訃報を知ることで、自分は氏の定義した「お守り言葉」のことを思い出していた。そうすると、今まで言葉にできなかった感覚の正体が少しずつ明らかになってゆくように思えた。
自分は「戦争法案」という言葉を否定しない。しかし、「お守り言葉」から自分達の身を守るために生まれたその言葉も、「お守り言葉」としての機能を有しているのだと思う。「戦争法案」という言葉の影響力が強まる程に、思考が単純化され、対話が奪われ、煽動の危険性が高まることも忘れずにいたい。あくまでも言葉に対する問いかけを続けてゆくべきだと思う。

戦後を象徴する「民主主義」という言葉も、その問いかけを留めた時点で、都合のよい「お守り言葉」として利用される可能性を含んでいるのだと思う。ある人は「多数決こそが民主主義だ」と言う。しかし、その多数決の中からも「独裁」が生まれた歴史を忘れるべきではない。「民主主義」とは何であるかを問い続けたいと思う。
出来合いのフレーズや主義主張に寄るばかりでなく、体験し、自分の頭で考え、自分なりの言葉や伝え方を探し続けることの大切さを、この時代の中でより強く感じる。そのためには、他者との出会いと経験に基づく実感が不可欠だ。
そういった積み重ねが民主主義の根幹を支え、対話の可能性を生み出すのだと思う。自分は、対話が成り立たなければ民主主義は終わると考えている。立場の違う相手にも伝わる言葉を探したいと思う。

作家の高橋源一郎氏は、週刊プレイボーイ誌のインタビューの中で、http://wpb.shueisha.co.jp/2015/07/14/50697/3・11が明らかにしたのは、この国の「対話の非存在」であり、この国にはそもそも民主主義は存在しなかったのでないかと問題提起している。しかし、氏はそのことを悲観するのではなく、むしろそこに気づくことで、民主主義を探し始めるきっかけになるのではないかと語る。
この国に「民主主義は存在しなかった」かどうかはさておき、「民主主義を探し始める」という姿勢に共感を覚える。

自分は、戦後の日本が民主主義の理想を体現してきたとは思わない。戦後民主主義を支えた「民主」「自由」「平和」「人権」といった「お守り言葉」の実体を検証し直す作業も必要だと考える。
それぞれが「民主主義」を問い直し、その考えを持ち寄り、時にはぶつかり合いながらも、ともに「民主主義を探す」作業を丁寧に続けることが、風通しのよい未来を切り開いてゆくのではないかと思う。
ー2015年7月29日(水)

2015年7月24日金曜日

石田長生さんのこと

7月8日午前、随分とご無沙汰している知人からFacebookを通じて個人宛のメッセージが届いた。ギタリストでシンガーの石田長生さんの訃報を知らせる連絡だった。自分にとって石田さんは、学生時代から大変お世話になった大切な先輩だった。
今年の3月に食道がんの手術と治療のため大阪の病院に入院した石田さんの容態が芳しくないらしいことは、数人から聞いていた。先月仕事で大阪に行く際には、入院中の石田さんのお見舞に行くべきかどうか悩んだ。そのときにお見舞いを見送ったことが、今になって悔やまれる。
ツアーのスケジュールが入っていたため、石田さんの通夜にも告別式にも参加することができなかった。後でFacebookを通して、告別式で有山じゅんじさんが弔辞を読まれたことを知った。有山さんも大変お世話になり大きな影響を受けた先輩なのだが、その有山さんを自分に紹介してくれたのが石田さんだった。
有山さんの弔辞の内容を知って、何とも言えない気持ちになった。病床での石田さんの思いや、残された近しい人達の気持ちを想像して胸が締め付けられた。

石田さんが亡くなってからも、自分の暮らしは慌ただしく続いた。ツアーから戻った後は、5度目の尿管結石で数日苦しんだ末にどうにか石を排出し、不安な体調のまま安保法制の強行採決に異議を唱えるため国会前の抗議集会に参加し、翌日からまたツアーに出た。
その間、石田さんを知る人に会えば、なるべく石田さんの話をするようにした。そうすると忘れていた石田さんとのさまざまな思い出が次から次へと思い出された。その思い出のすべては無理にしても、文章にまとめておきたい、それが自分の石田さんへの追悼になるのではと思った。長い文章になりますが、お付き合い下さい。

大学3回生の頃、京都のライブハウス磔磔までシンガーソングライターの友部正人さんのライブを観に行った。その時のゲストギタリストが石田さんだった。ライブを観に行く際、鞄の中に自分のピアノ弾き語りのカセットデモテープを2つしのばせた。あわよくば終演後、石田さん、友部さんそれぞれに手渡そうと目論んでいたのだ。
磔磔は楽屋が2階にあって屋外に出るには1階の客席を通らなければいけない。自分は終演後も客席に居残り、2人を待ち続けた。
2階の楽屋から客席に降りてきた友部さんは、一言で言えば、近寄りがたかった。当時の友部さんは独特の緊張感、威圧感をまとっていて、1ファンが気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった(ただ、友部さん本人は威圧している意識は皆無だったと思う。多分それが自然体だったのだろう)。客席に降り立った友部さんは、物販物の残りを受け取って、それらを収納してキャスターに巻き付け終えると、間を置くことなく磔磔を後にした。自分は、その友部さんの後ろ姿を、デモテープを持って固まったまま見送った。多分、声をかければ受け取ってもらえたのだろうと今にして思うけれど、当時はその結界を破る勇気がなかった。結果、友部さんとの出会いが2年程遅れた。

一方の石田さんは、友部さんとは対照的で、楽屋から客席に降りてくると、店を出ることなく、客席後方の座敷席に腰を下ろしてビールを注文し、スタッフや知人らしき人達と談笑を始めた。オープンな空気がこちらにも伝わってきた。これなら大丈夫そうだ。
自分は意を決して石田さんに近づきデモテープを手渡した。そのときのやり取りは忘れてしまったけれど、石田さんの気さくさが、とてもありがたかったことを覚えている。

磔磔で石田さんにデモテープを渡して多分1週間も経たない頃、自分がレギュラーで月2回出演していた十三のファンダンゴというライブハウスでいつものようにピアノの弾き語りをしていたら、10人にも満たないお客さんの中に、石田さんの姿を発見した。デモテープを聴いて興味を持ち、観に来てくれたのだという。驚いたし、すごく嬉しかった。それから石田さんとの交流が始まった。

ほどなくして、当時石田さんがやっていたバンド、ボイス&リズムのバナナホールでのワンマンライブのオープニングアクトに抜擢してもらい、続けて、石田さんのファンダンゴでのライブにもゲストで呼んでもらった。自分のライブイベントに石田さんにゲストとして出演してもらったこともあった。無名の学生アマチュアミュージシャンのライブに名の知れたプロが参加するというのは、なかなかあり得ないことだ。
大学を卒業したら就職せずプロのミュージシャンを目指すことを考え始めていた当時の自分にとって、石田さんとの出会いは大きな出来事だった。とても勇気づけられたし、自信にもなった。少し道がひらけたようにも思えた。

石田さんにはプラベートでもお世話になった。お互いプロレス好きということもあって、プロレス団体が大阪に興行しにやってくるときは、石田さんからお誘いの連絡をもらうようになった。石田さんの知人らと一緒にプロレス観戦し、その後はミナミに飲みに連れていってもらうのが恒例で、憂歌団の花岡さんもその中のレギュラーメンバーだった。その酒の席には、石田さんのつてでテレビや会場でしか観たことのなかったプロレスラーが参加することもあった。
いつも賑やかで楽しいお酒だった。ファンキーな男女が集うミナミの酒場の空気は、今の自分のお酒の飲み方にも影響を与えているかもしれない。

当時、石田さんと2人きりで飲ませてもらう機会があって、そのときのことも忘れられない。それは、皆で楽しく騒ぐ普段のお酒とは違っていた。当時の石田さんはプライベートは決して順調ではなかったようで、その酒の席で唐突に「リクオ、オレ嫁さんとうまいこといってなくて、多分離婚すると思うわ」と明かされた。どうリアクションしてよいのかわからず戸惑う一方で、こんな若造にも弱い面を見せてくれるその人柄に、より親しみを感じた。

酒の席で石田さんが何度も真面目な顔で「オレは野垂れ死にする気がしてんねん」と語っていたのも強く印象に残っている。自分には、その言葉は、どんな状況になっても音楽を演り続けるのだという決意表明のように感じられた。
2人きりになると、石田さんはより素直に対等に接してくれた印象があり、そういうときに石田さんが見せる「哀愁」や「素直さ」が、自分の中の石田さんのイメージの1部分となった。
考えてみれば、当時の石田さんはまだ34、5歳くらいの年齢で、今の自分よりもずっと年下だったのだ。自身もさまざまな不安や葛藤の最中であったのではないかと今にして思う。そんな自身の姿を石田さんは、学生のアマチュアミュージシャンだった自分にも、素直に見せようとしてくれていた気がする。
自分がお世話になった先輩ミュージシャンは皆、「素直」と「誠実」を感じさせてくれる人達ばかりだった。この文章を綴りながら、自分はいい出会いに恵まれているなあとつくづく思う。

自分もプロミュージシャンとしてのキャリアを重ねるようになると、石田さんとは、酒の席で自我やプライドをぶつけあって険悪になることもあった。石田さんにとって、自分は少し生意気な後輩だったかもしれない。
数年前、石田さんを含めた数人で下北沢で飲み明かしたことがあった。そのとき、かなり酔った石田さんから随分ときついことを言われて腹を立て、自分も刺のある言葉で言い返し、場が険悪な雰囲気になってしまった。自分は腹を立てたまま朝の7時頃に店を出たのだが、石田さんはそのまま店に残って飲み続けた。腹が立ったのは耳の痛いことを人前で言われたからでもあった。

それから1週間程して、大阪で知り合いのバンドのライブを観に行った時、会場で偶然に石田さんと遭遇して、また飲みに誘われた。石田さんへのわだかまりはまだ残っていたのだけれど、断る選択肢はなかった。石田さんと2人きりのお酒は久し振りだった。
自分は嫌な事を心にためることがあまりできない質なので、先週の下北沢の酒席でのわだかまりを正直に話した。
こちらの話を一通り聞いた後、石田さんは申し訳なさそうに「リクオ、オレ酔ってて全然覚えてへんけど、すまんかったな。今日はお詫びにオレにおごらせてくれ。」と言って、その日のお代をすべて支払ってくれた。
石田さんの言葉と態度によって、わだかまりは消えてしまった。自分もようやく素直な気持ちになることができて、下北沢では買い言葉とはいえお世話になった先輩に失礼な物言いをしたことを申し訳なく思った。もしかしたら石田さんはあの時のことを本当は覚えていたのかもしれないと思う。

文章を綴れば綴る程、石田さんともっと飲みたかったし、話したかったし、もっと一緒に演奏したかったという思いがつのる。そして、自分は石田さんに認められたかったのだなあ、褒められたかったのだなあとも思う。
石田さんには色んなアドヴァイスをしてもらった。時には厳しい言い方をされて腹を立てたりもしたけれど、もうそんな風に言ってくれる人が回りにほとんどいなくなってしまったことが寂しい。

デビューから8年間お世話になった事務所を辞めたばかりの頃、大阪から東京に越してきて間もない石田さんの阿佐ヶ谷の部屋にお邪魔して、確定申告のやり方を教えてもらった。こういう時の石田さんは本当に親身なのだ。今も石田さんに教えてもらった確定申告のやり方を忠実に守っている。
石田さんの部屋の隅には束になった東スポが積みあげられていた。「リクオ、オレはここで毎日ヒンズースクワットやってるんやで」と、なぜか自慢げに話す石田さんの姿を思い出す。

いくつになっても練習や鍛錬を自分に課すことのできる人だったと思う。石田さんのテクニカルなギターはそうした積み重ねによって支えられていた。ずば抜けた演奏技術を維持しながら、自身の不器用さを謙虚に自覚していて、準備を怠らない人だった。石田さんからは「練習せいよ」と何度も言われた。
テクニカルなギタリストが失くしがちな人間臭さや歌心が石田さんのギターからは充分感じられた。自身がシンガーであったことも影響していると思う。
特に複数のセッションの時に石田さんがみせるアグレッシブなギターは、闘いに挑む格闘家の姿とだぶった。負けず嫌いな性格が反映されていたのだと思う。個人的には、シンガーに最大のリスペクトを表して抑制気味にギターを弾くときの石田さんの色気により魅力を感じた。
石田さんは亡くなる2日前まで病室でギターを練習していたそうだ。

5年前、自分のデビュー20周年を記念するライブイベントを下北沢で開催した時に、ゲストの1人として石田さんに出演してもらった。出演をお願いするため久し振りに石田さんに電話したら「リクオがオレを誘うのは久し振りやな」と言われて、少しドキリとした。
本番当日、石田さんの盟友であるヒップランドの阿部登さんが他界した。当日、石田さんは阿部さんが入院していた大阪の病室から直接会場入りした。
その日のステージで石田さんとRCサクセションの「スローバラード」をセッションした。ボーカルは自分と多和田えみちゃんでパート分けをして歌った。ドラムは坂田学、ベースは寺岡信芳。めずらしく石田さんはテレキャスターをエフェクターに通さずアンプにダイレクトでつないだ。
そのときの共演を作品に残せて本当に良かったと思う。魂を揺さぶる最高のギターだった。演奏後、自分はひどく感動して、石田さんとしばらく肩を抱きあった。石田さんの肩越しで、誰にもばれないように少しだけ泣いた。
そう言えば、あの時も石田さんと朝まで飲んだなあ。

石田さんの回りには同時代を生きた同世代の盟友が数多く存在した。刺激し合い、支え合い、ケンカし合える、端から見ていてホントに羨ましく思えるステキな関係だった。
昨年夏、石田さんと同じ食道がんで亡くなったベーシストの藤井裕さんをお見舞いした時に、裕さんと石田さんの話になった。とにかく石田さんがしょっちゅう見舞いに来てくれるのだと言う。「リクオ、持つべきもんは友達やなあ」と裕さんがしみじみと語っていたのを思い出す。
石田さんはこれまで同世代の仲間をたくさん見送ってきたけれど、こんなに早く自分が見送られることになるとは予測していなかっただろうと思う。入院直後の石田さんから受け取ったメールには「心配かけて、かえって悪かったね…。しかし、私は生き続けるのだ!」と打たれていた。

先週末、ツアーの合間に大阪ミナミで行われた知人の結婚パーティーに参加した。午後8時にはパーティーが終演したので、その後は若い頃に石田さんに連れていってもらったバーなどを含め、ミナミの飲み屋を4軒ハシゴした。
4軒めにたどり着く頃には、自分は相当な酔っ払いに仕上がっていた。最後のお店は、アメリカ村の外れにあるカウンターだけの小さなミュージックバーで、石田さんも馴染みの場所だった。
お店に到着したらまずマスターに、石田さんによるザ・バンドのカヴァー「ザ・ウェイト(THE WEIGHT )」を流してほしいとリクエストした。けれど、リクエスト直後に、もし今その曲を聴いたら自分の感情が押さえられなくなりそうな気がして、すぐにリクエストを取りやめた。「実は自分もまだ石田さんの声やギターが聴けないんですよ」とマスターが言った。

それからほどなくして3人のお客さんがお店に入ってきた。その中の1人の顔に見覚えがあった。なんと、自分に最初に石田さんの訃報を伝えてくれたNさんだった。そして驚くことに、Nさんが紹介してくれたお連れの1人の女性が、昨年再婚したばかりの石田さんの奥さんだったのだ。
石田さんを想ってミナミで飲んでいたら、石田さんの訃報を伝えてくれたNさんと石田さんの奥さんに出会うなんて、偶然の巡り合わせにしても出来過ぎた話だ。

初対面だった奥さんから「石田が会わせてくれたんやねえ」と言われて、自分もそのように思えた。それからは皆で石田さんの話をたくさんした。自分も石田さんへの思いを語った。
「病床で石田はリクオさんの話を色々と聞かせてくれたのよ。石田はリクオさんのことがホントに好きだった。」奥さんからそう言ってもらって、自分はもう言葉が出なくなった。

石田さんには本当に色々とお世話になったけれど、まだまだお返しがしきれなかった。せめて、石田さんが自分にしてくれたことを、次の世代の人達にやっていけたらと思う。

後日Facebookの個人宛メッセージを通じて石田さんの奥さんから連絡をいただいた。その文章は「これからも石田長生を宜しくお願い致します。」という言葉で締めくくられていた。
自分は、これからも繰り返し石田さんのことを思い出し、色んな場所で石田さんの話をし続けるだろう。自分だけでなく、石田さんの音楽と人柄に触れたすべての人達の心の中から、石田さんの存在が消えることは決してないと思う。

ー2015年 7月24日

2015年5月23日土曜日

希望のための絶望の歌ー復活した遠藤ミチロウさんの歌を聴いて

今年の「祝春一番」3日目、5月5日大阪・服部緑地野外音楽堂のステージで、病から復活した遠藤ミチロウさん率いるバンド、THE ENDのライブを見た。病み上がり後の今年初ライブでは椅子に座ってのステージだったと人伝に聞いて、心配していたのだけれど、この日のミチロウさんは終始スタンディングで、声もよく出ていて、とてもエネルギッシュなパフォーマンスだった。

復活したミチロウさんを暖かく迎え入れようとする会場の柔らかい空気は、THE ENDの演奏が始まると一定の緊張感に支配されるようになった。自分は、ステージ上で「終わりの始まりだ」と歌い叫ぶミチロウさんの姿に圧倒されながら、その剥き出しの表現にどこか懐かしさのようなものも感じていた。
ミチロウさんの空気を切り裂く雄叫びは、3・11以降も知らないふりを決め込み、絶望に目を背け続ける社会に対する孤独な抵抗のように感じた。
「自分はどちらの側なのだろうか?」と考えた。多分、どちらの側でもある。
今のフクイチの状況のヤバさを感じながらも、ずっとそのこを考え続けることには耐えられない自分がいる。公の出来事と個人の暮らしはつながっているけれど、どこかで線引きをしないとやっていけないとも思う。世の中の嫌な空気には染まりたくないのだ。
絶望をキャッチし、受け止めて歌にするミチロウさんは、だからこそ強く希望を探し求めている。自分にとってミチロウさんの歌は、「希望のための絶望の歌」だ。

自分は流行歌や軽薄の衣装を着た音楽も好きだけれど、ミチロウさんのむき出しの歌の中に自分の表現の原点の1つがあると感じる。軽さや洗練を目指す一方で、その原点を忘れてはいけないと思う。そして、そのような歌や表現が今の世の中には足りないと感じる。自分も含め、多くの人間が時代の空気に流され過ぎなのかもしれない。流されてゆく中で、無自覚な自主規制が始まり、思考が停止してゆく。流されていいこともあるけれど、流されちゃいけないこともあるはずだ。

ミチロウさんの姿が「美しい」のはドロドロの醜さや絶望を吐き出す事を厭わないからだ。それは「きれい」とは別のものだ。たぶん「きれい」過ぎるものには本質が抜け落ちているのだろう。
こういうことを書いていると、自分の言葉に自身が突きつけられることになる。自分の表現は「きれい」過ぎはしないかと自問する。一見「きれい」に見えて、その実「美しい」表現ができたらなと思う。
言葉が抽象に走り過ぎかもしれない。

ステージ上のミチロウさんは何かヤバいこと、歌ってはいけないことを歌っているように感じた。それは、自分の中の自主規制やその場の空気を優先するセンサーがそう感じさせたのかもしれない。「本当のこと」はヤバいのだ。ミチロウさんは、「空気を読む」ことよりも「空気を切り裂く」ことを優先しているように感じた。
世の中にはそんなミチロウさんの歌に「違和感」を持つ人もいるだろう。自分も先日のミチロウさんのステージに、共感と同時にある種の「違和感」を持ったけれど、それは懐かしさや親しみを覚える「違和感」だった。そして、その感覚は今も尾を引いてる。きっと、その「違和感」の中にこそ「本当のこと」は隠されている。ただ気持ちがいい、心地良いだけが音楽ではないのだ。

「終わりの始まりだ」と叫ぶミチロウさんの姿を見て、3・11直後に自分が最もリアリティーをもって受け止めたメッセージを思い出した。
「終わりを始めなければ、新しい未来は始まらない。絶望の暗闇に向き合わなければ、希望の光は見えない。」
自分は3・11以前もそのようなことを思い、歌にもしてきたはずだけれど、3・11直後、それらの言葉の意味やリアリティーが明らかに変わった。言葉に強い実感がともなったのだ。その時の記憶を大切にしたいと思う。
あれから自分達はどれほどの絶望に向き合えたのだろう。

ミチロウさんのことを考えながら、社会のことを考え、最終的に自分のことを考えていた。自分が「ロック」だと感じる音楽には、娯楽をこえて、そのような作用がある。
ー2015年5月23日(土)

2015年4月2日木曜日

はかめく思いー桜の季節に

桜並木の続く川沿いの通りで自転車を止め、短い花見をすませた後、喫茶店に入り、このブログを更新している。今日の藤沢は風が強く、8分咲きの桜の花もはらはらと散り始めていた。

桜の季節を迎えると心が不安定になりがちだったのが、近年はそうでもなくなった。桜が満開になり散ってゆく過程で、今も感傷的な気分にはなるけれど、それで心のバランスが崩れて鬱々とするようなことはなくなった。
この時期に忙しくすることが多くなって、不安定になる余裕がなくなってしまったのかもしれない。或は自分の感性がにぶってしまったのだろうか。そう言えば、この時期ひどかった花粉症もほとんど治ってしまった。

自意識過剰で過敏だった若い頃と比べれば、今は心が安定している。涙腺は緩くなったけれど、気持ちを引きずる事が少なくなった。自分のことばかり考えていたあの頃よりは、色んな意味で生きやすくなった。
割り切れない気持ちがなくなったわけではないけれど、その思いを心のどこかに置いたままバランスをとって生きてゆく術に長けてきた気がする。体験の積み重ねが、自分を以前よりもタフにしたことも確かだろう。

こういうことを書いていると、なんとなく寂しいような気持ちにもなる。
タフになるということは(あくまでも当時に比べれば)、ある種の感受性を鈍らせるということかもしれない。あの頃に戻りたいわけではないけれど、あの思いを失なってしまうことに対する寂しさがどこかにあるのだろう。
ただ、若い頃の自分は過敏ではあったけれど、他者に対しては今よりも鈍感で、今以上に平気で相手を傷つけた。で、それが結局ブーメランになって自分に返ってきた。もう、そんな頃に戻りたいとは思わないし、そもそもどんな時代にも戻りたいとは思わない。生まれ変わりたいという欲求も希薄だ。めんどくさいと感じる。一生一度でいいかなと。そう考えた方が、日々を大切に生きてゆけるような気もする。

ツアー先の弘前で聞いた「はかめく」という方言にインスパイアされて、’06年に「はかめき」https://www.youtube.com/watch?v=72MnBTIxMXo&feature=youtu.beという桜ソングを書いた。自分の中で大切な曲の1つではあったけれど、ライブのレパートリーとして定番になることはなかった。それが、なぜか’11年の東日本大震災以降、お客さんや知人からこの曲をリクエストされたり好きだと言われる機会が増えた。特に被災地の知人からそう言われる機会が多くて、理由がよくわからず不思議に思っていたのだけれど、昨年末にリリースしたライブ盤「リクオ with HOBO HOUSE BAND LIVE at 伝承ホール」に「はかめき」を収録するにあたり、何度もこの曲を繰り返し聴き、リリースを受けてライブでも演奏する機会が増える中で、その理由がなんとなく自分なりにわかるような気がしはじめた。

心の柔らかい部分を失わずにいるということは「痛み」をともなう。その過去がつらいのは、その相手や場所や出来事に強い「思い入れ」が存在したからだ。その過去を忘れてしまうことは、その相手や場所や出来事を心の中から消し去ることだ。
たとえ「痛み」をともなっても失いたくない記憶がある。そして、「痛み」をともなっても忘れちゃいけない過去もあるはずだ。最近は、立ち止まり振り返ることの大切さを感じている。

なんだか考えがまとまらぬままに書き綴ってしまった。やはり桜の季節のせいかもしれない。
ー2015年4月2日(木)

【告知です】今週末4月5日(日)下北沢GARDEN 公演を皮切りに、自分がコーディネイトする毎年恒例のコラボセッションイベント『HOBO CONNECTION 2015』が、今年も日本各地で9公演開催されます。最近は、レコーディングと平行して日々イベントの準備に追われています。「一期一会」という言葉がこれほどふさわしいイベントは他にないと自負しています。 初日5日(日)下北沢GARDENでは、チャボさん、金子マリさん、奇妙礼太郎とセッションしまくります。ベースは寺さん、ドラムの椎野さん。ぜひ観に来て下さい。
web site http://www.rikuo.net/hoboconnection/
FB page https://www.facebook.com/HOBOCONNECTION/
最近、BARKSに掲載されインタビューで「HOBO CONNECTION」について語っています。イベントの趣旨や意義が伝わる内容です。
http://www.barks.jp/news/?id=1000113784

2015年3月11日水曜日

立ち止まり振り返り、問い続けるー2015年3月11日に思う

東日本大震災から4年の歳月が流れた。
夕方、スタジオでのリハーサルを終えた後、カフェに立ち寄り、コーヒーをすすりながらパソコンを開き、’11年3月11日以降にアップした自分のブログを読み返した。
当時の記憶と気持ちが少しずつよみがえってくるのを感じた。不安、哀しみ、怒り、後ろめたさ、後悔を含んだ、なんともやりきれない思い。当時の感情のすべてを思いだしたくはない。つらくなるからだ。けれどそのつらさは、被災して身内や知人を失った人達、放射能汚染によって故郷を離れざるをえなくなった人達のそれに比べれば軽い。

先月、地震による津波で甚大な被害を受けた南三陸と石巻を訪れたときに、地元の知人達が口々に「3月11日が近づくと心が重くなる」と語っていたことを思いだす。あまりにも悲しくつらい記憶は、忘れたくても忘れ去ることができないのだ。3月11日に思いだすべきは、他人事として日々を過ごしがちな自分であり、あなたなのだろう。

今から3年前の2012年3月11日にブログにアップした文章を、再び掲載します。東日本大震災から4年を経て、前ばかり向くのではなく、立ち止まり振り返り、問い続けることの大切さを感じています。


●2012年3月11日(日)1年を経てー「希望」のための告白

「自分は、被災した人達と、思いを一体化させることはできない」
 わかっていたはずのことだけれど、昨年5月、震災後に初めて、被災地である石巻、女川、南三陸を訪れた時に、あらためてそのことを思い知りました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの想像力と心の容量を、自分は持ち合わせていませんでした。感情移入し過ぎると、自分が壊れそうな気がしました。

 この世は、あまりにも不条理に満ちていて、それらすべてを直視し、受け入れて暮らすことは、困難です。世界中の絶望に心のチャンネルを合わせることは不可能です。他者への想像力の大切さを感じる一方で、その想像力にリミッターがかかってしまうことがあるのも、仕方がないように思います。
 人は極度の不安と緊張に、長く堪え続けることはできません。だから、事態が収束もしていないのに、忘れようとしてしまう。オレもそうです。
 けれど、不安や絶望、矛盾に向き合わなければ、見いだせない希望があります。希望なしには人は生きていけない。だから、絶望に心のすべてを取り込まれないよう気をつけながら、その先の光に目を凝らさなければいけない。力み過ぎず、焦り過ぎず。

「人は互いに寄り添わなければ、生きていけない」
 そのことも被災地で強く感じました。そこでは、多くの人達が助け合い、いたわりあって生きていました。現地でのボランティアの皆さんの活躍には、頭の下がる思いでした。音楽を通して、被災地の人達と、ほんの少しでも繋がれたような気がしたことは、自分の救いになりました。震災後のやりきれない思いの中で、自分は音楽によって何度も救われました。
 そんな自分の行動には、自己満足や偽善も含まれていたと思います。被災地に何度も足を運んだ動機の一つには、「何かすることで、まとわりつく『後ろめたさ』を解消させたい」という都合の良い自分本位な思いがありました。高揚がおさまると、そういった自分の不純や矛盾に気づくことがありましたが、そのことで必要以上に自分を責めることは、やめるようにしました。行動には、そういう不純な動機も含まれるものだと思って、開き直ることにしました。ただし、これから生きてゆく上で、「後ろめたさ」とは、付き合い続けようと思います。

 人は「孤独」を抱えて生き続けることはできても、「孤立」に堪え続けて生きることはできないと思います。自分達の他者への無関心が、多くの人を孤立化させるだけでなく、結局、自分自分も孤立化させてしまうのだと思います。だから、しんどくても、その想像力のリミッターをはずさなければいけないときがあります。
 そのときに、きっと自分自身の心も傷つきます。だから心が壊れてしまわないよう、自分自身をいたわることも忘れずにいようと思います。

 最後に、去年(2011年)の3月16日のブログに掲載した詩を、あらためて掲載します。
 この詩を書いた時の自分は、東北から離れた場所にいて、不安と絶望に心を苛まれていました。被災した人達のことも想いました。自分の無力さに、やりきれない気持ちで一杯でした。そんな気分の中で、言葉を探し、メロディーを思い出そうとしたのは、つまり、どうにかして「希望」を見いだしたかったからです。そのときの思いを忘れずにいようと思います。
 一体にはなれなくても、繋がりたい。方々を巡りながら、その方法を探し続けてゆくつもりです。    
       ーリクオ           


しばらくテレビのニュースを消して、パソコンも閉じて、心を鎮めてみる。
自分の弱さ、脆さを嘆くのはやめる。認めてやる。
そらしゃあない。
自分にとって大切なものは何?
つないだ手のぬくもりを思い出す。
忘れかけていたメロディーを口ずさむ。
少し無理をしてバカなことを言ってみる。
結構受けた。
笑顔にほっとした。
自分の中にあった優しさを思い出す。
希望を思い出す。
勇気を思い出す。

新しい暮らしが始まる。
新しい生き方を探す。
一人ではなく。
哀しみを忘れない。
後悔を忘れない。
後ろめたさも忘れない。
でも、引きずらない。
力み過ぎない。
祈り続ける。
歌い続ける。
新しい言葉とメロディーが生まれる。
呼吸を整えて、元気を出す。

2015年2月17日火曜日

「飲酒演奏」と「哀しみ」と「おかしみ」と「慈しみ」と「グルーヴ」と「ブルース」の関係についてー木村充揮さんとの共演で感じたこと

先日、自分が暮らす藤沢市のライブハウスGIGSで行われた木村充揮さんのライブに、特別出演という形で参加させてもらった。元々は、昨年11月に同店で共演予定だったのが、木村さんが急病でライブ前日に緊急入院となり、出演がキャンセルになってしまったことを受けて、今回あらためて企画され、3ヶ月越しに実現した共演だった。
この日、自分のステージを終えた後は、客席でお酒を飲みながら木村さんのライブを楽しませてもらった。実に味わい深い素敵なステージだった。自分の原点の1つと言える表現がそこにはあった。

空気を読むだけでなく、時には敢えて空気を壊す、緊張と緩和を操るようなステージング。歌い出したその瞬間に、場の空気を一瞬に掴んでしまうその凄みに、何度もしびれた。
そして、あの哀愁感。哀しくておかしい。おかしくて、やがて哀しい。
そこにはいつもグルーヴがある。どんな曲調でも身体が揺れるのだ。自分は、こんな音楽を「ブルース」と呼びたい。

木村さんは入院前と変わらずの飲酒演奏だった。その酒量は、多分、客席にいる自分の飲酒量を超えていた。それだけ飲める程、体力が回復したとも言えるけれど、やはり少し心配にもなった。まあ、自分が言うのもなんですが。
ステージ上で酒を飲み、タバコをくゆらせる姿がこれほど様になる人は、木村さん以外には有山じゅんじさんくらいしか思い浮かばない。

木村さんや有山さん、そして自分がステージで飲酒するのは、一種の依存だと思う(オレは飲まずに演ることもあります)。不安や緊張、疲れから解放されるためである。飲酒演奏がここまで定着してしまうと、お客さんや企画者側からそれを期待されるようにもなるので、ニーズに応えようとする側面も出てくる。それで、余計に酒量が増えてしまう。
そういった日々の積み重ねは確実に身体にダメージを与える。それがわかっていても飲んでしまう。酔ったノリでその夜がサイコーに楽しくもなるし、翌日に落ち込んだり、体力、気力ともひどく消耗したりもする。

木村さんや自分が演奏する機会の多いライブハウスやバーと言われる空間は、酒の存在を切り離すことのできない猥雑さを多分に含んだ場だ。けれど、そんな空間の中でもステージ上は、神聖さを多いに含んだ場所だ。つまり、ライブスポットは猥雑と神聖が同居する空間なのだ。飲酒するのは猥雑さのせいだけでなく、そこが常に何かと共鳴し合い、何かを生み出すための神聖な空間だからだ。
言い換えれば、ステージはすごく覚悟のいる、楽しいけれど、とても怖い場所だ。数百回、何千回ライブをこなしてもその意識は多分変わらない。

「酒は人間をダメにするものではない。人間は(本来)だめなもので、それをわからせてくれるものが酒だ。」

文章を書き連ねるうちに、この立川談志の言葉を思いだした。
木村さんはどうしようもない自分自身のことを知っている。そんな自分を抱えてステージに上がる。だから表現のベースにはいつも「哀しみ」がある。
木村さんがステージでお酒を飲み、お客さんがそれを受け入れるのは、自身を含めたどうしようもない「人間」という存在に対する肯定であり共感なのかもしれない(念のために言っておけば、先日の木村さんの演奏は、どれだけ酒が進んでも、崩れることのない素晴らしいものだった)。そう言えば、立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」とも言っていた。自分が思う「ブルース」の精神もそのようなものだ。
木村さんの「哀しみ」は「おかしみ」となり、それらは「慈しみ」によって包み込まれる。「天使のダミ声」とはよく言ったものだなあと思う。木村さんの音楽と人となりは一体化していて、それらは聖と俗を併せ持っている。
どうしようもない「人間」に対する眼差しの優しさと共感。どんな時代に生きていても、この大切な感性を失いたくないし、奪われたくない。自分も大切に育んでいきたいと思う。

先日のGIGSライブのアンコールでは、この日のオープニングで演奏した心平(近田心平)とMai-kouちゃんも参加して、出演者全員で「お掃除おばちゃん」と「見上げてごらん夜の星を」の2曲をセッションした。26歳と20歳の2人は、ステージ上で、客席で、楽屋で、この先人から何を感じ取ったのだろう。遺伝子が引き継がれたらいいなと思う。

木村さんも有山さんも、少しは身体をいたわって長生きしてほしいと心から思う。オレも身体気いつけます。
4月には大阪でまた木村さんと共演予定です。関西の方、ぜひ。
ー2014年2月17日(火)

●4/24(金)大阪・シャングリラ 06-6343-8601
「HOBO CONNECTION 2015~シェキナ・コネクション ~」
出演:高木まひことシェキナベイべーズ/木村充揮/リクオ/本夛マキ/安藤八主博(ザ・たこさん)
前売り¥3500/当日¥4000(1D別)
open 18:30/start 19:00
2/14(土)チケット発売開始
ローソン/ぴあ/イープラス
問)06-6343-8601


●リクオがオーガナイズするコラボ・セッション・イベント「 HOBO CONNECTION 2015」が4月より全国各地9公演開催!詳細→ http://www.rikuo.net/hoboconnection/



2015年1月29日木曜日

よし、明日へ行こうー「公の問題」と「私的な問題」と「もやもや」との関係

特別なライブを明日30日にひかえて、どうにも気持ちが落ち着かない。
「公の問題」と「私的な問題」がごっちゃになって切り離して考えることができずにいる。ニュースも気になるし、明日のことも考えるし、明日以降の仕事の準備もしなきゃいけない。やるべきことは多いけれど、心が「もやもや」したままで一つに集中できない。

午後になって自宅を出て、いつものように海沿いをチャリンコで走り、いつもの場所にチャリを置いて、しばし海を眺めながら体をのばしたり深呼吸繰り返したりした後、近くのファミレスへ行く。この街に越してきて以来続いているルーティーンに近い行動パターンだ。
ファミレスでランチをすませた後は、パソコンを開きながらコーヒーを何杯もおかわりして、そのままお店に居座り続ける。TwitterやFacebookのタイムラインを眺めていると、時間がどんどん過ぎてしまう。なんとなく罪悪感を覚える。
「もやもや」が消えないので、久し振りにブログをアップすることにした。




「公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きるべきだ」という吉本隆明の言葉を時々思いだす。その通りだと思う一方で、「公の問題」と「私的な問題」を、完全に切り離すことは難しい。つきつめてゆけば、当然のことながら「公の問題」も他人事ではなく「私的な問題」とつながっているからだ。
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」
作家の吉田健のこの言葉を自分のオリジナルである「パラダイス」という楽曲のエンディングの語りで、よく引用させてもらっている。こういう言葉に対しては、昔なら「プチブル」的であるとのレッテルが張られたりしたのだろうけれど、今もまた同じ意味のことを言われそうな空気を感じることがある。だから、最近この言葉を引用するときは、場によっては受け取る側の違和感を想像して、少し緊張したりする(意識過剰だと思う)。そんな状況だからこそ余計に必要な言葉だとも思うけれど。

ここ最近「公の問題」と「私的な問題」が重なって、軽い「孤立感」にに苛まれていたりする(そういう感情はそう長くは続かないけれど)。文章にしてしまうと深刻にとられ過ぎてしまうかもしれない。回りにこれだけよくしてもらって「孤立感」なんて言葉を出すのもどうかと思うけれど、誰もが日常の中にふと抱く感情だと思う。
3・11以降、思うところがあって、以前よりも社会にコミットすることを意識するようになり、社会的な発言をする機会が増えていたのだけれど、最近そういうことに関して自分の考えを表明する機会が少し減っている。
さまざまな出来事に対して思うところはあるけれど、なかなか言葉にまとまらず、はっきりした答をすぐに出せないことも多いので、流されて無理に意見や考えを述べるのをひかえている感じた。このブログの更新が滞っているのもそのことが一因になっていると思う(あと、忙しくて心の余裕がない)。
考えてみれば、自分がどの立場にも依りきれないという「孤立感」は、3・11以降、多くの人が自分と同じ思いを持っているという連帯感と平行して、ずっと抱え続けていた思いだった。そして、その「孤立感」が「もやもや」をもたらす一因となっている。
この「もやもや」は、はっきりとした答を自分の中で導き出せないことも一因なのだろうけれど、ならば、無理に解消するのではなく「もやもや」を抱え続けようかとも思う。それで曲ができれば、なおよい。でも、音楽生活の中では楽しいことも多くて、すぐに「もやもや」を忘れてしまいがちなのだ。

そういった思いを抱えているときに、朝日新聞デジタルに掲載された作家・高橋源一郎の文章「熱狂の陰の孤独 『表現の自由』を叫ぶ前に」に出会った。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11574914.html?_requesturl=articles%2FDA3S11574914.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11574914

文中の言葉を以下に引用させてもらう。

 テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。
 動画を見た。オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、ふたりはなにを考えていたのだろうか。その思いが初めにある。「意見」はその後だ。
 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。


これらの文章に触れて、少し腑に落ちたような、救われたような気持ちになった(と同時に、人の意見で無理に自分を納得させてはいけないとの心の声も聞こえてくるけれど)。さらに引用を続ける。

 襲撃事件から数日後、「二十世紀のもっとも偉大な風刺漫画家」ともいうべきアメリカ人ロバート・クラムのインタビューが掲載された。彼は四半世紀にわたってフランスに住んでいたのだ。
 クラムは、ことばを慎重に選びながら、「表現の自由」を守れと熱狂するフランスへの静かな違和を語った。
 「9・11の同時多発テロの時と同じだ。国の安全保障が最優先され、それに反するものは押しつぶされるのだ」
 「それで、あなたは何をしているのですか?」と記者は重ねて訊(たず)ねた。
 「わたしは(風刺)漫画を描いた。ひとりの臆病な(風刺)漫画家としてね」
 クラムは「意見」を述べるのではなく、漫画を描くことを選んだ。


クラムが漫画を描くことを選んだように、自分の最大の表現の場はやはり音楽だ。テキトーなくせにどこかマジメで、臆病なくせに時々妙な正義感に左右され、常に引き裂かれている、そんな自分に向き合い、ユーモアとグルーヴを忘れずに、表現し続け、皆との解放空間をつくり続けたいと思う。
とにかくまずは、明日のライブですべてを昇華させよう。一つのことに集中し、瞬間にすべてをささげ、その瞬間を皆で共有する場を与えられているのは、本当にありがたく幸せなことだ。
お時間許す方、明日30日(金)下北沢GARDENに来て下さい。サイコーのメンバーと一緒にサイコーの「HAPPY DAY」にします。

しめが宣伝とお願いになってしまい、なんだかなあと思いつつも、これが本心です。
よし、無事を心より願いながら、明日へ行こう。

今年も、「もやもや」したり、立ち止まったりしながら、基本的には面白おかしく日々を過ごし、少しずつ前に進んでゆくつもりです。また時々、ブログも更新します。お付き合いの程、よろしくお願いします。
ー2015年1月29日(木)


1/30(金)東京 下北沢 GARDEN 03-3410-3431
『リクオ with HOBO HOUSE BAND Live at 伝承ホール』アルバム発売記念ライブ
開場18:30 開演19:30 前売¥4500 当日¥5000(いずれも飲食別)
【出演】リクオ with HOBO HOUSE BAND
笹倉慎介(ギター&コーラス)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/ 宮下広輔(ペダルスティール)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)/真城めぐみ(コーラス)
メール予約: reserve@rikuo.net (当日15:00まで受付)